――秋の空、思い出と名付けられた鳥が空を走る。柔らかな日差しを求め、海を渡る鳥たちが、哀れ、独り身の男に、彼女の居場所を告げて飛び去った。秋晴れを曇天に変え、闇を切り裂く雷となり、今、会いに行く。再び目と目が合ったその時に、初恋だったと、君に告げたい。―――
『卒業と共に、僕は茨の谷に帰る』
誉れ高き妖精の王。我が身は、王の盾であり、劔でもある。
若様をお側で守り、この命を尽くせることを天の使命だと思って生きてきた。それは今も疑わない。しかし、それ故、失うものがある。
知らなかった。誰が為に生き、誰が為に命を燃やすのか。その答えの外に生きる人間。
ただでさえ弱い種族において、さらに弱く、異なる世界から飛ばされ、退路を断たれた哀れな迷い子。光の中から現れ、光の中で生きる人。
この世界の誰より一等弱く、一等愛しい。彼女を、確かに愛していた。
『お前は、光の差す場所で生きろ』
「セベク、帰ったのか」
「今、戻った。城内は変わりないか」
「問題ない、今日は部屋で休めと親父殿から言伝だ」
シルバーと二、三言葉を交わし、自室に戻る。
休日はあれど、街に出たのは随分と久しぶりだった。たまには外の空気でも吸え、とリリアに言われ、半ば強引に鏡を潜ったが、行って良かったのかもしれない。5年ぶりに見た、ふやけた彼女の顔が脳裏を過る。
名前。異世界からやってきた女。NRC時代、自分の恋人でもあった。
卒業と同時に別れ、それきり。少女と女性のあわいに立っていた18歳が、いつの間にか立派な女性へと変わっている。泣き笑い、コロコロと変わり飽きなかった表情が嘘のように、今日の彼女はただ優しく微笑むだけだった。
本を探しに行った。嘘ではない。シェーパード通りの古本屋は、取り扱いも多いと聞いていたから期待していたが、やはり目当てのものは見当たらない。一冊の本、その続編を探し始めて、丁度7年。
『Porte d’adieu――別離の門』
思えば、それが彼女とのキッカケだった。放課後の図書室。埃をかぶった文庫本のコーナーで、高い棚に手を伸ばしていた彼女。オンボロ寮の監督生。魔法をも使えず、踏み台をここまで持ってくる力もない。あまりに弱く、生きていくには頼りない。強く生まれた者の宿命として、あの場で手を貸したのは、間違いだったか、それとも。
『別離の門か、セベクにしては珍しいものを読んでおるな』
『いえ、これは人間に勧められたものです!』
『ほぅ、人の子か おなごが好きそうなチョイスじゃ』
オンボロ寮は何もないので、手遊びに此方の世界の本が読みたい。
彼女に何か薦めてほしいと言われ、定期的に本の貸し借りをしていた。徐々に自分が薦めたもの以外も読むようになった彼女が、面白かった本を教えてくれたこともある。
『別離の門』もその一つ。彼女が腫れぼったい瞼で、感動したと言って貸してきた本。若い男女の出会いと別れを描いた、特別面白みのない本だった。これが面白かったのかと、何度か読み返し、やはり面白さは理解出来ず。しかし、彼女がそれを読んで泣いているところは容易に想像できた。
「はい」
「ワシじゃ」
「リリア様っ!?」
慌ててドアを開ければ、跳ねるようにリリアが入ってくる。どうかしたのかと聞けば、なんでもないとあっけらかんと言われてしまい、力が抜ける。いつになっても掴めない御人である。
「ほれ、お主に手紙じゃ」
「そんなものは言って頂ければ、取りに伺います」
「何、久しぶりにお主と話そうと思っただけじゃ ほれ座れ」
リリアが持ってきたのは、丁度エース=トラッポラからの手紙だった。今日、名前が言っていたものだろう。“To Sebek” 性格に似合わず几帳面な字はそのままだ。
「街で何かあったか」
「いえ、それが! ……名前に偶然会いました」
「なに、人の子に?」
「はい、買い物に来ていたそうです」
「そうか、懐かしい名じゃ」
リリアがニコニコと嬉しそうに笑った。オンボロ寮の監督生。マレウスの唯一無二の友人として、気にかけていた。いつもトラブルの中心にいる彼女は、リリアのお気に入りでもある。
「その手紙とも関係あるのか」
「これはエースが久しぶりに会おうと企画しているらしく、今日名前から話を聞いたところです」
「行かぬのか?」
「そう頻繁にマレウス様の護衛を休む訳にはいきません」
リリアは、セベクを見て、やれやれとため息を吐く。素直で一直線なのは結構だが、少々自分を省みないところがある。こればっかりは、他人が何か言ってどうにかなる問題でもない。しかし、リリアはリリアなりに、セベクと人の子の恋を応援していたのだ。
「セベクや」
「はい!何でしょうか」
「ここは学園ではない。護衛も半日抜けたところで問題ないことは分かっているじゃろう」
「しかし……!」
「ワシらは、どう生きても、人の子らより長い時間苦しむことになる」
それは、妖精族の宿命だ。
人より長い時間を生きること。長い時間を生きれば、苦痛に満ちた時間もあるだろう。自分より長く生きるリリアが言うのだから間違いない。いつか必ず別れの時が来る。その時、置いて行かれるのは自分だ。それが恐ろしかった、自分も、きっと名前も。
「人を愛せ、その手で守れ。傷つくことを恐れないでくれ」
「リリア様」
「人一人幸せにできなくて、マレウスを守れるのか?」
ハッと、息を飲む。リリアはそれを見て、セットした髪をぐしゃぐしゃにする。
またひらりと舞うように部屋を出て行く小柄な背中を見送り、強く強く拳を握っていたことに気がつく。赤くなってしまった。
あの、秋の暖かい日に、卒業で寂寥と安堵に包まれる学園の隅。誰の目にも止まらない廊下の柱の陰で、小さな人間に別れを告げた。式典服に身を包み、しかし卒業生名簿に名を残すことはないひとりぽっちの少女に。
光の中で生きる彼女には、この谷は似合わないと思った。陽の当たる暖かなところにいてほしい。とても我儘で身勝手だ。彼女の意見など聞かずに決めた。正しいと信じて疑わなかったが、どうだろう。誰も教えてくれない。どの本にも書いてない。
ただ尊敬するひとは、『人を愛せ』と言った。
あの秋の日に、まだ心がひとり取り残されている。