茨城に戻り、8月15日は先生と共に迎えた。家の近くの通りからバスに乗り、15分ほどのところにある山道を上る。山頂へと続くハイキングコースの途中にある寺に、先生のご家族は眠っているという。夏、しかも盆休みということもあってか、ハイキングコースは登山姿の家族づれで賑わっていた。
しかし、そこから一歩逸れ、境内へと足を踏み入れれば途端にひとの気配はない。ジリジリと鳴く蝉だけが、そこで私たちを待っている。私は花を、先生は水桶を持ち、墓石へと向かった。途中一組の老夫婦とすれ違う。お盆の時期においてもこの様子では、地方の高齢化と過疎化は深刻化なようだ。
墓参りを無事に終え、お寺で少し休んでもらうことにした。直射日光の中で山道を上り降りしては、熱中症にもなりかねない。こちらには出不精の物書きがいる。強いて言えば、私も暑いのはあまり得意ではない。住職のご好意で頂いた麦茶を体に染み込ませながら、高台から見下ろす町の景色を楽しんだ。遮るものがないこの町の空は広い。炎天下の中でも、鳥は元気に飛んでいる。
「住職さん、先生のこと見て大きくなったって喜んでいましたよ」
「無理もない。最後に来たのは婆ちゃんがまだ生きていた頃だからな」
先生は、以前、母親があまり自分のことを見てくれなかったと言った。その点、墓石と向かい合えば否が応でも、故人に思いを馳せなくてはならない。それを良いものだと思う人もいれば、そうでない人もいる。当然のことだ。だからこそ、こうして今日、先生がここへ来るという決断をしてくれたことを、そこに私を連れてきてくれたことを、とても嬉しく思う。
「――夏ですね」
照りつける太陽と、揺れる新緑の木々に向け呟いた。遠くから聞こえてくる子供の笑い声にそれは包まれ、遠のいてゆく。暑い暑いと言いながら、静かに重ねられた右手を動かそうとは思わなかった。
葉月の晩。今日は熱帯夜であるので、くれぐれも熱中症には気をつけて寝るようにとニュースキャスターが白っぽい顔で述べた。外から聞こえてくる蝉の声がいかにもそれらしい夏を演出し、温い風が余計に温まるような心地がする。同じ夏でも、目の前にある素麺とは雲泥の差だ。今夜の夕食は、素麺の上にお肉と焼きねぎを添えたシンプルなもの。というのも、昼間に出向いたお墓参りにて、今夏一番だという気温と山道に体力を削られてしまったのだ。先生のことを日頃から出不精だと言っている私が情けない。その先生はけろりとした顔で、帰った後もお仕事をされていたし、畳の上で休憩という名の昼寝をしていた私とは大違い。もう少し運動量を増やさなければと思いはするものの、ここで何をするべきかもわからず、また夏を終えるだろう。
食後、いつもと同じく熱いお茶をいれた。いくら地球温暖化に熱帯夜とはいえ、食後には熱い茶が飲みたくなるものだ。茶一つとっても、この家に来て随分とうまく入れられるようになったと思いながら、まだ湯気の出る湯呑みを手に取った。少し席を外していた先生が、何かを手に、居間へと戻ってきた。私の向かいに座る。そわそわしているのは珍しいような気がした。
「お茶、温め直しましょうか」
「いや、これでいい」
沈黙。普段であれば、テレビを見ながらああだこうだと話をするが、どうにもそのようなことをするような雰囲気ではない。私はそっと手を伸ばし、ちゃぶ台の上のリモコンを手にとってテレビを消した。部屋の中には蝉の声と車のエンジン音だけが聞こえて来る。伺うように先生の方を見ると、じっと私の方を見ているので、やはり何か、話はあるようだ。
「先生、……どうか、されまして?」
茶をいれて、テレビを消し、口を閉じた。これでも十分に話を促したつもりではあったのだが、まだ足りないようなので我慢ならずに口を開く。じっと黙っているのも嫌ではないが、この先生の場合、それでは埒が明かないと知っている。先生はどっぷりと深いため息を吐き出すと、乱雑に自分の頭をかいた。
「――新しい本だ」
無理して話をする必要はない。そう言おうとしたとき、先生は観念したような顔で持っていたものを私の前に差し出した。新しい本。猫が描かれた一冊の本、著者は山田猫となっている。先生の本はいくつか見たことがあるが、どれも重厚な見た目のカバーに難しそうな名前と、売り文句が並べられている。今、私が手に取っているようなポップなものは見たことがない。巻き付けられた帯には目立つ文字で、【皐月賞作家が贈る、新たな時代のラブストーリー】と、その裏には大きく【重版続々】の文字。失礼を承知で思わず「あら」と驚いた。先生にも、それは伝わっていたはずだ。山猫先生といえば、社会派ミステリーの若手の星である。いつもむつかしい顔で経済新聞を読み漁り、取材相手はもっぱら銀行や警察関係者である先生が、まさかこの顔で恋愛小説を執筆するとは。驚いたって無理からぬ話だ。
「谷垣がアンタには必ず渡せ、と」
先生が、自分の書き物を私に見せることなどまずない。本棚は好きに見ていいと言われているので、先生の本もいくつかは読んだことがあるが、普段興味を持って手に取るジャンルとは全く別のものであるし、先生もそれは知っている。その部分を引いても先生の話は面白いが、如何せん頭を使うのだ。
「先生、こういったものもお書きになられるんですね」
普段、先生が書かれるものの半分程度の厚さのそれは紛うことなき恋愛小説であった。はらりはらりとページを軽く捲っただけでも、あちこちの男女の繊細な心情が綴られているのが目に入る。
”離れてゆこうとするものに縋ったのは、初めてのことであった”
”彼女のいない食卓に並ぶ肉じゃがの、なんと味の薄いこと”
”桜の中で笑う君を、愛することの意味を知る”
そして、最後のページには「君へ」の二文字。これが誰に向けて誰が書いたのか、私と先生と、谷垣さんだけが知っている。だから、谷垣さんは気を回して必ず渡せと先生に言ったのだ。そうでなければ、私が本棚から見つけ出す日まで決して自分から言おうとはしない人だから。
「俺は、誰かを大切にするというのがあまり得意じゃない」
「はい」
「アンタは俺にはもったいない人間だが、放してやろうという気もない」
私がこぽりと涙を零したのを見て、先生はギョッとした顔をする。その顔があんまりおかしくて、涙はたった一粒だけで引っ込んでしまう。泣きたいわけじゃなかったが、言葉にならないものが溢れた時は仕方がない。先生の心と同じ本を抱き、私はそっと頷いた。離れていこうという気は、私もないのだ。
「ねえ先生。私、先生のこと大好きです」
先生が笑う。その時は私も笑っていた。今年30にもなろうかという男女が使うにはいささか幼稚な言葉だが、彼が言葉にするのが不得意であるならば、私がその分、言葉にしなくてはいけない。そう思った。
「この本も、先生の言葉も、今日の夜のことも、ぜんぶ大切にしますね」
ちゃぶ台の湯呑みは、とっくに冷めてしまっている。時計の針がどれだけ進んだかも知れないが、そう長い時間ではなかったように思う。ずれるように人生が変わってゆく。一年と半年前、この家の敷居を跨いだ時の私は、こうなるとは露ほども思っていなかった。しかし、こうなったことを、今は人生で一番幸せなことであるように感じている。えてして、人生とはあやふやなものなのだ。きっと、そう気負う必要も、思い悩む必要もない。
「苦労をかけるが、よろしく頼む」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
私たちは、その日、これからもずっと一緒にいると約束をした。二人の時計が壊れるまでの終わりある時間の中で、私たちはこれからも細やかな瞬間を積み重ねて歩いてゆく。私たちが進んだ轍は、いつか言葉に代わり、一冊の物語になるかもしれないが、それはその時まで分からない。
名前は、まだない。
終