令和二年、夏。8月13日、私は東京へ来ていた。東京から鞄二つで茨城へ向かう列車に乗った時はこの土地にはしばらく帰りたくないなどと思っていたが、地に足をつけて暮らせばひとの心は落ち着くもので、結局先生の元で働き始めてから、東京へは年に何回か帰る機会があった。ここで暮らしていた頃には、うんざりとしていた人混みも、たまに見ればそう厭なものでもない。まるで異国の地のような、不思議な高揚感があった。

 東京へと帰った理由は、言うまでもなく盆の墓参りである。夏の強い日差しがコンクリートから跳ね返り、ここはあの街とは違った暑さが存在している。同じ日本で、同じ季節を生きていても、住む場所ごとに違う夏がある。東京駅を出て、電車に乗り換え、駅から実家へと続く長い道の間、そんなことを考えていた。

 東京は少しずつ変化していくが、実家というものはまるで時計の針を感じさせない。この私が生まれ育った町だけ取り残されてしまったのではないかと思うほど、いつまでも同じであるように感じられた。私が荷を部屋に置いて、茨城の手土産を母に渡した頃には、もうすっかりと日が暮れそうな時間になっている。東京へ帰っても、明日の墓参り以外は特に予定もないので、なるべく遅い時間の列車を選んだのだ。明日、墓参りが終わればその足で向こうへ帰る話をすれば、父と母は少し寂しそうにしていたが、そうはいっても、もう実家を離れ長い。私が帰れば、いつもの日常へ戻るだけだ。

「――名前

 夕方、母に言われ、今夜のお酒を買いに駅前のスーパーマーケットまで行った帰り道。とっぷりと日の暮れた道を、エコバックにワイン一本とほうれん草にツナ缶を入れて抱えていた。空に浮かんが宵の明星をぼんやりと見上げた時、不意に誰かが私の名を呼んだ。この街で生まれた時から大学時代まで長い時間を過ごしてきたのだ、知り合いも多い。しかし、その中でもとりわけ会いたくなかった人間の声であることは間違いない。その声を私が間違えるはずがない。両親を除けば、一番多く聴き慣れた声だ。私は足を止め、観念して、声のする方へ振り向く。スーツのネクタイを緩めながら、彼が「よう」と笑いかけてくる。どうしたって、彼との縁は切れないことになっているらしい。

「――葵」
「久しぶり。戻ってきてたんだ」
「明日のお墓参りには顔出せって言われてたからね」

 彼はそっかと笑いながら、ごくごく自然に私の隣に並んだ。そして当然のように私の方へ手を出し、抱えているエコバッグを指さす。「持つよ」。岩峰葵はこういう男である。非常に優しく常識があり、私のことを常に尊重してくれる。そういうところを尊敬していた。友人という括りの中では好ましく思ってもいる。しかし、もう彼の優しさに助けられる生き方はしたくはない。

「ううん、いいの。ありがとう」

 葵は少し驚いたような顔をしたが、すぐにその意図が何であるかを察し、「そっか」とその手を引っ込めた。私と彼は、長い時間を共にしてきたから、互いの考えていることをそれとなく理解できる。私と彼はこれからも良き友人でいられるだろうが、それが最善であるとは限らない。少なくとも彼が私を好いてくれていたという事実は、思い出に代えてしまうには、あまりに彼の人生の中の長い時間を費やしてしまった。だから、昔はバッグが触れ合うほど近くにいた二人が、今じゃ半人分距離を開けて並んでいるのだ。

 同じ方向へと帰る道で取り止めのない話をした。家族、仕事。友人。中学校の担任が昨年末に亡くなった話。一ヶ月もすれば、今日なにを話したか忘れてしまうような、そんな時間。彼との時間はいつも穏やかだが、今となってはそこに寂しさを互いに感じずにはいられない。自転車を二つ並べて帰った学生時代とは、二人の関係は決定的に変わってしまった。

「……もしかして、好きな人とかできた?」

 私の家まであと数十メートルを残し、葵が唐突にそんな話をした。なんか変わったという言葉とともに投げかけられた質問に、私は嘘をつくわけにもいかず、うんと頷く。私の素直すぎる返事に、葵は昔のように声をあげて笑った。

「そうだよなあ、もう2年以上経ってんだもんな」

 彼は寂しそうにも悲しそうにも見えなかった。そのことが少しだけ寂しくなったのは、きっとあの時、私だけであった。移り行く時間の中に、互いに流してしまった思い出がある。彼方まで流されてもう見えないが、それは暖かく愛しかった記憶だけが残っている。

「それじゃあ、ここで。……もう名前とは、出会いませんように」
「うん、元気で。――もう、会いませんように」

 私の家の前に到着し、同じタイミングで互いに右手を上げた。さよならに相応しい星の綺麗な夏の夜、私たちは運命の糸に鋏を入れた。


 実家の扉を開き、リビングでは父がグラスを3つ持って私を待っている。ただいまと声をかければ、丁度よく出来立ての唐揚げが食卓に並んだ。
「おかえり」
 その時、またも不意に先生の顔が浮かんだ。あの家で一人寝転がる無愛想な猫に、無性に会いたい気持ちが大きくなる。彼の、無愛想でそっけない「おかえり」がどうしても聴きたくなる。
 たった一晩、されど一晩だ。

「お父さん、お母さん。私、もしかしたら結婚するかもしれない」