作家というものは気まぐれであり、規則的であり、多くの場合、偏屈である。名だたる文豪たちが積み上げてきた一種差別的な偏見は、彼のせいで一層と深められることになった。尾形百之助は、まるでヤマネコである。世に存在する彼の著作のファンたちは、見かけに反して愛らしいそのペンネームから、彼をヤマネコ先生と呼ぶそうだが、本人のことを知ると、なおその名前が彼のためにあるように思えてならなかった。

 気まぐれであり、規則的であり、偏屈である。三日三晩、彼を苦しめた高熱はそれが嘘であったかのように4日目の朝には消え去り、5日目には全快である。動くのも億劫だと赤い顔をして布団で丸くなっていたのに、突然「治った」と言い出したと思えば、五日目の夜には普段通り動き回り、食事をとっている。段階というものを知らないらしい。結局、最終的には薬だ粥だと騒いでいた私の方がぐったりとしている始末だ。体力のないことは元より明白なので致し方ない。兎にも角にも、病気が悪化して大ごとにならずによかったと思うこととした。健康が一番である。

 先生の快気祝いと言うと少々大袈裟であるが、しばらく味気のない粥飯ばかり食べて飽きただろうと、今夜は先生の食べたいものを作るという話になった。しかし、この男、何度も言うが食べ物やお金にとことん執着がない。何を食べたいと聞かれるのはさぞ困る質問なのだろう。宇宙に放り出された猫のような顔で、しばし静止していた。そして、ようやく口を開いたと思えば、出てきた答えは「鍋」。まさか、夏に熱に浮かされた後に食べる飯が鍋とは。

 驚きこそしたが、暑い中食べる熱々の鍋がわけもなく幸せであることは私も知っている。そして先生が肉よりも魚の方が好きであることは知っていたので、今夜の鍋には何か良い魚を入れようとスーパーの鮮魚コーナーで、すっかり顔見知りになった店員に尋ねた。

「鍋ねぇ、冬なら鮟鱇が一番なんだけどね」

 そこでようやく先生が言わんとしたことを理解する。先生のもとで働き始めたばかりの頃、好きな食べ物を問うたとき、先生は「あんこう鍋」と言った。東京で生まれ育った私には全く馴染みがなかったが、それはこの地域の冬の名物料理である。先生はおそらく好物のあんこう鍋が食べたかったのだ。しかし、夏であんこうがない。だから鍋。クロスワードが全てピッタリとハマったように、心の中がスッキリとする。魚を見ながら「なるほど」と呟いていた。

 そして、夜。私たちは一つの鍋を囲み、額に薄らと汗を浮かべていた。鍋をつつく先生に、「先生」と声をかけると丸い目がこちらを向いた。惜しいしですかと聞けば、ああと頷かれ、それ以上は何もない。そこで先生の方も、今日自分が鍋を食べたいと言ったことを思い出したのか、付け足すように「うまいぞ」と言った。先生も、人と暮らすうちに、心遣いを覚えたらしい。

「今日は帰りに魚屋さんにも寄って、あんこうが入ったらすぐに教えて欲しいって言ってきました。11月くらいだそうですから、もうしばらく待ってくださいね」

 まだまだ半年近く先の話にはなってしまうが、年月というのは思うよりもあっという間に過ぎ去ってゆくものだ。こうして先生と鍋をつつき、今年の夏は例年にも増して暑いですねと言い合っていれば、じきに夏は終わるだろう。

「あんこう鍋が美味いのは、12月からだ」
「あら、そうなんですか。じゃあもっと待たないと」

 先生は、愉快そうな笑みを浮かべている。先生がそんな顔をするなんてよほどそれは美味しいのだろうか。早くも、あんこう鍋が楽しみになっている。

「いい。……待つのは嫌いじゃない」

 先生との時間は、そこにいる間はすごくゆっくり進むように感じているのに、気がついたらうんと時間が経っている。快気祝いだからと沢山入れた具材も残り少なくなり、ガスコンロの火を消した。開けっぱなしにした窓から入ってくる夏の風が、部屋に篭った出汁の匂いをぐるりとかき混ぜる。

 私は食後のお茶を入れるために立ち上がり、やかんに火をつけた。先生も続いて立ち上がり、シンクにお椀と鍋を置いて洗ってくれる。普段はこれも私の仕事だが、この家の鍋は重いので、先生がいつも片付けてくれるのだ。並んで台所に立つ。そんな時間もいつの間には増えている。先生と過ごす多くあるが、有限だ。一度過ぎれば、もう帰っては来ない。


 お茶を淹れた。これも快気祝いと奮発してしまった少しいい茶葉だ。美味しいでしょうと言った私に、先生は訳のわからそうな顔をしていたが、少し間を開けて「ああ」とまた言う。先生は、空気を読むことも覚えたのだ。

「――アンタが来て、俺は初めて飯や茶に美味いまずいがあることを知った」

 先生の言葉には、いつも嘘がなかった。嫌味やからかいの念は多分にあっただろうが、それでも言葉はシンプルで、悪いことも良いことも素直に伝わる。だからこそ先生は、言葉を選んで話すのだろうし、口を開く回数も少ないのだと思う。私は先生の伝えてくれる言葉を一つも逃さないように耳を傾け、その意味の一つも取り違えることがないように先生の目を見た。

「アンタと食べれば美味いし、アンタがいない飯はあまり美味くない」

 淡々と告げられる言葉の中に、ひとは恋の意味を知る。恋をすると、誰かを特別愛おしいと思う感情が、常に自分の心臓に巣食っている。寝ても覚めても恋しい人がいて、それはやがて心臓の一部に変わる。いなくてはならず、なくなれば死んでしまう。それが愛だと、昔誰かがテレビの中で言っていた。

「アンタがこの家に来て、家は綺麗に保たれ、時間になれば飯が出てくる。静かだった家から、ひとの足音と話し声がするようになった。昔はそれを疎ましく思っていたが、それがアンタだと思えば、そうでもない」

 湯呑みの湯気は消え、人肌にぬるまった。窓の外からは虫の鳴く声がして、もうすぐそこに夏がいる。もうすぐ行くぞと声がした。じっとりと肌に張り付くような湿った暑さの中で、もっと熱いものを互いに抱えている。

「それじゃああれですよ、好きだと言われているみたいに聞こえますね」
「……そのつもりだったんだが、」

 私たちは顔を見合わせて、声を殺して笑い合った。素直に生きられない性分が、そうそう簡単に直るものではない。そして先生のそれは良さでもあるし、直す必要もないものだ。先生は視線を上げて、私の顔をチラリと伺った。それがアンタはどうなのかと返事を急いている。言葉にしないところは、慎重で臆病な猫らしく、しかし相手の返事が気になるのは実に人間らしい。

「私もこの家に来て、誰かのために美味しいご飯を作ったり、誰かさんが寝転ぶ畳を掃除したり、そんな小さなことが幸せだと知りました」

 先生との時間が何にも代え難く愛おしい。例えばそれは布団を干した夜に、少しだけ嬉しそうにしているところや、嫌いなものを皿の隅にこっそり除けているところ。有限な時間の中にある、そんなささやかな瞬間を積み重ね、一つ一つに名前をつけて、そっと心のどこかに隠してきた。

「今はこの時間が、ずっと続けばいいと思っています」

 春の桜に願ったことを、目の前の彼にも願ってみれば、いつもの無表情には隠しきれぬ優しさを湛えていた。照れ臭い。顔がカッと熱いのは、この蒸れた夏のような空気のせいだということにする。今夜、私たちが言ったことは、他の人にとってはあまり魅力的なものでもなく、情熱的な恋人たちの科白とはとても思えないものかもしれない。しかし、それで構わないのだ。誰かに伝える意味もなく、誰の記憶に留めておく必要もない。只、私と先生だけが今宵の気温と二人の照れ臭そうな顔と声を、その心臓に持っていれば、それで。