名古屋で迎える最後の夜。先生と二人、手羽先を食べながら向かい合ってお酒を飲んだ。谷垣さんも一緒にどうかと誘ったが、まだ仕事が残っていると断られてしまった。大手出版社の編集職は、やはり激務であるらしい。
二人きりで、しかも外でお酒を飲む機会はそう多くない。それに、外食や旅行という非日常的なイベントに少しだけ浮かれていたこと、選んだお店が当たりで、パリパリの手羽先が美味しくお酒が進んだこと。おまけに、その日は朝から名古屋の街中を歩き回って観光していたせいで、疲れが溜まっていた。考えれば当然の話だが、その日はお酒が進み、また早く回る条件が揃っていた。会話をして、少し黙って。気づけば時間は、日付を超える少し前を指していて、そこで漸くホテルへ戻ろうという話に相成った。
立った瞬間に、自分がひどく酒に酔っていることはわかったが、わかったところでどうしようもない話だ。私自身が酒に飲まれて潰れるほど弱くもなかったことがせめてもの救いだろうか。先生は、立ち上がって少しふらついたのを見逃さず、私の腕をつかんで支えてくれた。会計をしようにも、私の手洗いの間に先生が済ませてしまっていて、お金なんぞ受け取ってくれるわけもない。先生はすまし顔で、名古屋の街をホテルの方と歩き出した。
「今日は先生にご迷惑ばかりおかけして、何といえば良いか」
早速ズキズキと痛むこめかみを抑えながら、先生の半歩後ろをついて歩いた。取材のために髪を固め、薄手のジャケットをさらりと着こなす先生は、名古屋の夜景も相まって余計に格好良く見えた。本当に、余計な話だ。
「……まだそんなこと言ってんのか」
「だって、先生」
「アンタのことを迷惑だと思ったことは一度もない」
きっぱりと、先生が言い切った。人との関係を疎み、馴れ合いを厭うこの猫がそうはっきりと私にそれを告げる理由は、この夜のどこにあったのだろう。私は先生の言葉に目をパチクリさせて、返す言葉もなくその場に立ち尽くしてしまった。先生の黒い眼が私を見つめ、そして、そこに見え隠れする優しさに、彼の心中を知るのである。お酒に振られた足取りで、一歩二歩と先生の方へ近づく。まるで歩くことを覚えたばかりの赤ん坊のように、足元はふわふわとして覚束ない。先生はそんな私を見て、小さく眉間に皺を寄せ、強引に私の腰を引き寄せた。
「危なっかしくて見てられん」
いつからそんな優しい人になったのか。先生に見られる前に緩んだ口元に手を添える。気持ちばかり先生の方へ体を委ねれば、腰に回る手に力が入る。この猫のように警戒心の強い男の根底にあった人間不信は、まだしっかりと存在している。しかし、それは人を愛してやれない理由にはなり得なかった。たったそれだけのことだ。それは一つの奇跡に近いものであり、そういう奇跡を、人は好んで恋と名付けた。
「――”放っておけない”は、私の科白でしたのに」
酔っ払いの戯言を、先生が鼻で嗤った。生きるのにひどく無関心なこの人を繋ぎ止めておきたいと思ったのは、確かに私が最初であったような気がしていたけれど。先生は、私の体に回した腕を離さなかった。
そのままホテルへ入る。日付は超えている。ロビーには、フロントの従業員以外、人の姿はない。
カバンからルームキーを取り出し、エレベーターのセンサーにかざせば、すぐにそれが一階まで迎えにやってくる。静まり返ったフロアに、エレベーターのチンとというベルだけが鳴り、乗り込んで扉を閉めれば、またすぐに夜の静寂が帰って行った。
エレベーターを降りる。もう10メートルも歩かないうちに二人の部屋が並んでいる。私が礼を言って体をひねれば、蛇のようにまかれた腕はあっさりと離れていった。腰の熱が寂しく行き場を失っている。どうにも離れがたいという思いが、私の手をそっと先生の方へ伸ばした。酔っ払いの特権は何をしても許されるということ。その免罪符と共に、先生も私の手をゆるく握り返した。力の加減をわからず、かける言葉がわからず、人の愛し方を知らず。そうやって不器用に生きるこの人のことが、とても好きだと、名古屋の夜に気付かされる。
「――先生」
隠す気などなかった。どうせ聡いこの人には何を言っても筒抜けだ。
「名前」
夜のしじまに落っことされた私の名前をそっと拾って壁へと飾る。誰にも見つからないという確信だけが私たちの間にあった。廊下の突き当たり、窓から覗く月だけが、私と彼の初めてのキスを知っている。触れるだけのそれ。何とも形容しがたい幸福感が浮ついた体の芯を支えていた。
「……厭なら拒め」
誰に否定されることも嫌うひとがそう囁いた。愛することには勇気がいる。愛することと傷つけることは近しいものだと言ったのは彼だったか。誰かに向けた心の矢は、同時に我が身に突き刺さる。その痛みこそ、報われた思いの対価である。
私が言葉なく瞼を下ろせば、もう一度だけ、二人の影が重なった。
そうして臆病な私たちは、恋を知るのだ。
第4章「ツァラトゥス猫はかく語りき」 完
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