翌日、奇しくも午前中まで小さく降っていた雨は、正午を過ぎると嘘のように止み、太陽が雲間から顔を出した。時刻は、午後三時を少し回ったところである。
土曜日の動物園は当然だが家族づれと観光客で溢れ、大変な活気に満ちていた。その中、女一人、スマートフォンを片手に動物を嬉々として見て回る私は、少々浮いていたかもしれないが、この人の群れでは誰が誰の連れであるなどと気にしていない。私は、周囲の目も気にせずに、童心に戻って園内を歩き回った。
先生から連絡があったのは、丁度14時半。今終わった、と短くメッセージが入った。そこから私が、動物園にいる旨を返すと、そのまま何も返事が来なかったので、おそらく此方へ向かっている頃だと思う。どこで待ち合わせと決めている訳でもなかったので、ここへ到着したら連絡があるものだと勝手に決めて、自由に散策を続けていた。とりあえず、のつもりで目の前にいたコアラの写真を撮って送る。「可愛いです」。ひとこと添えると、すぐに既読がついた。しかし返事はない。いかにも先生らしく、その無言こそが先生の何よりの返事であるような気がして、私はまた勝手に満足してしまう。単純で生きやすい性格だ。
さて、私も自由に見て回ったとはいえ、先生が来る前に見ておきたい動物がいて進んでいた。ツシマヤマネコだ。入り口から遠く離れた奥まった場所に暮らす、それを一目見ようと動物園を奥へ奥へと進んでいく。次第に人の数は減っていった。確かに、園内に溢れ返す子供たちの興味を惹くような動物は、このエリアには少ないのかもしれない。
人が少ないのは好都合だと、ぐんぐんと進んでいたところ、私を呼び止める人があった。はい、と振り返る。そこには背の高い男性が一人立っていた。このような土地で私を呼び止める知り合いなどいない。落とし物かと咄嗟に地面を見たが、何もない。でなければ、道を聞きたいのかと思ったが、私とてここへ来たのは初めてだ。ここまで来れば間違いということもある。そこで、私が口を開くよりも先に、私の目をじっと見つめ返して言葉を発したのは相手の方だった。
「お姉さん、もしかしてお一人ですか」
その声色と彼の顔に浮かぶ薄い笑みに、その目的がナンパであることを悟る。ここが東京の都会の真ん中であれば珍しくもない話だろうが、名古屋の動物園に来た独り者同士の男女と限定すれば、物珍しい話だ。まさか彼も、ナンパ目当てでここへ来た訳でもないだろうに。
「いいえ、人と待ち合わせをしています」
こういった類の誘いは、はっきりと断るのが吉である。私がすぐに話を切り上げて立ち去ろうとすれば、男は咄嗟に私の腕を掴んだ。反射神経においても、力の強さにおいても上手である相手を前に、私はおずおずとその場に留まる羽目になった。冷や汗が背を伝う。あまり良い予感はしなかった。
「そうなんですか? さっき見かけた時も一人だったので、てっきりお一人でいらしているのかと思いました」
そうだとしても関係ない。薄気味悪い発言を、さもドラマの主人公であるかのような口振りで話す男に、確かな嫌悪感を覚えた。
「すみません。もうすぐ待ち合わせをしているので、離してください」
「いつ? 相手は女性? それとも、男ですか?」
男が腕の力を弱めたので、すぐに自分の腕を引く。私が一歩下がれば、男も同じように一歩迫ってくる。逃げても追われることはわかっていた。私は少しずつ後退しながら、スマートフォンをカバンから取り出す。ナンパといえど大抵は断れば引いていくのに、これは時折現れる厄介なタイプだ。よりによって、こんな右も左も分からない場所でなるとは運が悪い。
先生の元につとめ、あの平穏で何もない町で暮らすようになって以来、このような厄介ごととはご無沙汰であったためか、うまい対処法がすぐに浮かばない。誰かに連絡しようにも、警察を呼ぶほどのことでもなければ、近くにいる友人などいない。さてどうしようかと悩んだときに一番最初に浮かんだのは、昨日のコーヒーをふうふうと冷ます猫のような横顔だった。
スマートフォンの電源を入れる。新着メッセージ一件。「着きました」と、三分前。先生だ。トーク画面を開いて、先生にメッセージを送ろうとしたところで、相手の男がそのスマートフォンを上から掴んだ。
「今から僕と遊びませんか? 待ち合わせも断ればいい。後悔はさせません」
何がこうも彼を駆り立てるのか。一分も理解できないために、恐怖と焦燥が迫り上がってくる。私がもう一度、「離してください」と言ったところで黒目に生気を失った男に、届くはずもない。
いよいよ本当に困ったと、心中崖の淵まで追い詰められたそのときだ。英雄は大抵遅れてやってくる。その怠げな表情を、英雄と呼ぶのは間違いかもしれないが、それは私の救いの手であったことには違いない。
「――先生」
「これに何か御用か」
颯爽と現れた先生は、私と男の間に身を滑り込ませ、私の手を掴んでいた男の手をさっと払い落とした。そして後ろ手に私を自分の体の後ろに隠し、自らが男と対峙する。私が散々「待ち合わせを」と言っていたのが、ようやく真実であると知ったのか、男はあっさりと身を離し、大きく舌を打って踵を返した。これにて大ごとにせずに、事態は解決を迎えたのである。
「――アンタは、何をやっているんだ」
男が去った後、たった二人残されると、先生は額に滲む汗を手の甲で拭いながら、私を見下ろした。その頬にも汗が伝い、よくよく見ると僅かに息も上がっている。そこで初めて、私のことを急いで探して駆けつけてくれたのだと知る。
「また迷惑をかけてしまいました。すみません」
通路の隅に寄って、カバンから取り出したタオルで先生の汗を拭く。冬の間は動くのだって億劫だと炬燵に篭りきりだったこの人が、私のためにこの広い園内をかけてくれたのだ。申し訳ないと同時に、喜びが湧く。それを見透かされまいと、せっせと先生の汗を拭いていたら、その手を先生がパシリと掴んだ。
「怪我は」
その目に浮かぶのは、単に私を心配していたという先生の優しさでしかなく、またキュッと胸が締め付けられる。「ありません」と答えれば、先生の手の力が緩む。私は、嬉しいなどと思うのは不謹慎だと、そっと心を押し隠した。
「それにしても、よくここが分かりましたね。かなり奥でしたのに」
「コアラの写真を送ってきただろう」
頷く。それがどうしたと聞くと、出入り口の位置とコアラの場所を見て、私はその奥に進みたいのだと咄嗟に思ったそうだ。そして、そのさきで私の興味がありそうな場所といえば、一つ。
「ヤマネコが見たかったんだろう、と」
「す、すごい」
「いつもメッセージに既読がついて何も返事がないことはないので、よからぬことに巻き込まれているのかもしれないと急いで来たが、……正解だったな」
私は、さも誰にでもできることであるかのようにそれを語る先生の横顔を見ながら、やはり作家先生は頭がいいのだと感服した。思えば先生は社会派サスペンスを生業とする作家なのだ。こういった単純な推理も構想の一つに常に入っているのだろう。勿論、分かっていて出来る出来ないは、全くの別問題だが。
そこで、もう一度改って礼を言う。先生はああと言って、時計を見遣った。なんやかんやとしている間に、閉園時間までそう時間がなくなっている。
「早くしないと閉まる。行くぞ」
先生は、そのまま私の手を掴んで、ヤマネコのいる方へと歩き始めた。「えっ」と私が漏らした声も、勿論聞こえていたはずだ。猫は、耳も良いのだから。
「先生、――その、この手は。 怪我はしていませんよ」
「人が多い。逸れたら面倒だ」
もう日も傾き始め、子供はカラスの子と帰る時間だ。まして、ここは常時ひとの少ないエリア。その言い訳は些か苦しいような気もしたが、そんな野暮なことを言って、雰囲気を損ねるつもりもない。私たちは誰かとぶつかれば離れてしまいそうな力で、手と手を結び、歩いた。風に混じる雨の匂いはもうしなかった。