「名古屋、ですか」
「ああ、取材だ。こっちまで足を運ぶなら受けてもいいと言われたんでな」
「でもお仕事なら私はお邪魔なのでは」

 私の言ったことは、至極真っ当なことであったはずなのだが、先生の「まさか」と言わんばかりのお顔を見ていたら、そうでもないような気がしてくる。先生は、いや、と言い淀み、小首をかしげた。時折見せる、このようなあどけない仕草に、私は口元を隠してこっそり笑った。

「費用は出版社から出る。気にするな。……まあ、無理にとは言わんが」

 先生が湯呑みを傾けながら、そう言うので、今回もお言葉に甘えて同行させてもらうことにした。家にいてもいいが、またどうせ雇用主の責任がうんたらと、長い言い訳をされて最終的には丸め込まれてしまうことは分かりきっている。そうであるなら、最初からハイと頷く方が賢い。

 私の返事を聞き、先生は満足そうに頷いた。さて、経緯はどうであれ、名古屋に行くのは随分と久しぶりのことだ。働いていた頃に出張で何度か足を運んだことはあるが、あくまで仕事だったので観光らしい観光はしたことがない。せいぜい駅ナカで味噌カツを食べて、味噌カツ味のお菓子を土産に買ってお終いだ。取材旅行とはいえ、取材にまで私が同行することはない。お相手の方にお渡しする手土産を用意したら仕事はない。向こうで何を見るか、今から少し調べておこう。年甲斐もなくワクワクとしてしまっていることに気がつき、恥ずかしくなる。先生の方をチラリと見ると、ちょうど此方を見ていたのか、目があった。じっと数秒見つめ合ったあと、どちらかともなく目を逸らす。

 先生のいる生活には、もう慣れっこだ。

 皐月七日。つい数日まで、世間は世にいうゴールデンウィークだと連日、新幹線やら、高速道路が混雑しているというニュースで溢れていたが、休日が終われば、それらすべて嘘であったかのように消えてゆく。カレンダー通り、仕事に向かうサラリーマンに混じり、私と先生も東京へ向けて特急に乗り込んだ。前回と同様の行程だ。東京では、谷垣さんと合流し、駅の中で昼食を取り、そのまま東海道新幹線に乗り、名古屋へ。移動時間だけで四時間以上はかかった。

 座りっぱなしで軋んだ身体をうんと上へ伸ばし、大きく深呼吸をした。今回も、前回東京へ行った時と同じく私が荷を用意したのだが、こんなに荷物は要らないと言われたので、先生の荷物はほとんど着替えだけにした。男性は荷物が軽くて羨ましい。軽々と荷物を持つ先生の横で、私がよっこいしょと荷物を抱え直す。二泊三日の小旅行にそんな大荷物を持ってきたつもりもないのだが、着替えと寝巻きとスキンケアやら、必要なものを詰めるとこうなってしまうものだ。

 すると、先生が私の手元からその荷物を掠め取り、あっという間に自分のそれとすり替えた。止める間もない。言えば断られるだろうと気を遣ってくれたことが分かって、むず痒い気持ちになる。

「……ありがとうございます」

 先生の軽い荷物を胸の前で抱えて、私たちは名古屋駅を後にした。

 駅を出て、まずはホテルへ向かう。駅前のすぐところにある立派なビジネスホテルだった。部屋は3つ。しかも私と先生にいたってはそれぞれダブルルームを用意して頂いたらしい。なんでも先生の著書が売れ行き好調だから出版社様の方から多めに予算が出たとか。それであるなら私もシングルで良かったのに。

 部屋に案内され、私と先生は隣の部屋であった。先生たちの旅の予定は、今日は夕方から明日の取材に向けてミーティング、明日は午前と午後に取材が二件、最終日は午前中に関係のあるオフィス内を見学して、昼の三時の新幹線で帰宅だ。なかなか予定が詰まっている。淡々と行程を説明する谷垣さんの前で、先生の顔を見ると、死んだような目をしていて思わず笑ってしまった。

 部屋の中で荷物を置き、窓から外の様子を見る。壮観だ。さすが日本の三大都市というだけあって、立派なビルが立ち並び、その中にも名古屋城など歴史的建造物が共存している。しばらくぼーっと外の街並みを見下ろしていると、控えめにドアをノックする音が聞こえてきた。チャイムでないことを考えれば、それが誰であるかなど、すぐに分かった。

「――先生、どうかなさいましたか?」
「下に降りるが行くか」
「あれ、でも打ち合わせがあるんじゃないんですか」
「まだ時間がある。あの馬鹿みたいなアイスココアが飲みたいと言っていただろう」

 私はハッとして、すぐにハイと頷いた。名古屋で有名な珈琲店に行ってみたいというのは、確かテレビか雑誌を見ながら私が言ったこと。まさか覚えていてくれたとは思わず、少々恥ずかしい気もしたが、先生と遠くに出かける機会などそうあるものでもないので、すぐに小さな鞄に財布とポーチを詰めた。

 さすが有名店というべきか、ホテルの周辺、至る所にその珈琲店はあった。その一つに入り、先生は無難にブレンド、私は念願のアイスココアを注文する。おまけで付いてきた豆の菓子を食べていたら、それはすぐにやって来る。まさに天に聳え立つように大きなソフトクリームが上に乗っている。思わず、「おお」と心の声が漏れる。これはすごい。特集で紹介されるだけのことはある。

「大きい、ですねぇ」

 スマートフォンを取り出して、写真に納める。それにしたって画面に収まりきらない大きさだ。綺麗に撮れた写真を確認し、アイスココアの後ろで頬杖をつく先生を見遣る。わざとでないが向かい合っている以上、写真に入り込むのは仕方がない。これも旅の思い出だ。

「早くしないと溶けて溢れるぞ」

 先生の言葉で、私はようやく長いパフェスプーンを突き刺した。見ての通り、すごい質量である。結局、もたついている間に少々ココアがグラスから溢れたが、私が慌てて拭いているのを見て、先生は愉快そうに微笑っていた。

「それで明日の予定は」

 すっかり溶けたアイスとココアの絶妙なハーモニーを楽しむ私に、先生が問う。明日以降、先生たちが取材に行っている間の予定を聞かれたのである。

「明日は午前のうちに名古屋城へ行って、午後は動物園に行こうかと」
「――動物園?」

 先生はナンダソレという顔をしていたが、その動物園も名古屋の観光スポットとして有名な場所なのだ。なんでもイケメンなゴリラがいるらしく、一度御尊顔を拝したい。その話をすれば、先生には鼻で笑い飛ばされた。想定内だ。

「午後の取材はそこまで遅くならない予定だ」
「あら、じゃあ一緒にどこかへ行きますか」

 別に構わないと言うので、先生と一緒に行くなら名古屋城の方が良いかと聞けば、そこは行ったことがあるそうだ。確かに名古屋では著名なスポットであるし、何より私よりも教養のある先生が行ったことがないわけがない。現に、名古屋は取材も含め、何度か来たことがあるらしい。

「先生、動物園はご興味あります?」

 あるわけない。先生の顔に、はっきりそう書かれている。しかし、他に行くところとしてどこがあるだろう。名古屋駅の周辺のスポットは、その二つしか見てこなかったのだ。私が、恐る恐る尋ねると先生は、コーヒーカップの横に肘をついて、少し考えている。

「……アンタが行きたいところでいい」

 彼も大概、私に甘いような気がする。でも、それを谷垣さんに相談したらまた恥ずかしいことを言われてしまいそうで。

「ありがとうございます」
「終わったら連絡する。先に見ていればいい」

 まだ、いいだろう。今は、まだ。