こんなはずではなかった。断じてプレゼントの話ではない。先生へのプレゼントは迷いに迷った挙句、母の助言もあり良いものを選ぶことができた。そしてそのプレゼントを持って帰ろうと電車に乗ったのが16時ごろ。十八時過ぎにはこちらへ着けるように特急券も手配していたのだ。問題が起こったのは、茨城の中央駅から最寄に向かう路線である。踏切の故障。それに伴い、電車が軽い事故を起こしたと連絡が入った。幸いにも本当に軽微な事故でけが人、死傷者ともにナシと発表はされたが、こんな地方路線がそんな事故を受けてそう簡単に復旧するはずもない。
二両編成の鈍行は、いつまで経っても走り出さないまま、あっという間に月が昇った。今日中の復旧は難しいだろうと駅員さんに至極申し訳なさそうな顔で言われてしまえば、強く言い返すこともできなかった。振替輸送を手配しようにもここいらのバスは最終便が終わっている。結局タクシー代を出してもらうことで決着がついた。しかし、もうすっかり人波引いた駅前にタクシーの明かりは見えない。結局タクシー会社に電話をし、それに乗って家へと帰る頃にはもう少しで日を跨ごうかという時間だった。
明かりのつく家へ。門を開けて玄関へ向かえば、勝手に扉が開いた。
「わっ、……先生」
少し前にもこんなことがあった。私は驚きのすぐ次に湧き上がる微笑みを悟られないように、努めて冷静に「どうしたんですか」と問うた。ジト目の猫は答えない。予想の範囲内である。遅くなることを連絡してはいたが、充電もあまり残っていなかったので、今から帰るという肝心の連絡はできていなかったのだ。
「無事か」
その三文字だけで、この不器用な人嫌いが、私のためにどれだけ心を削ってくれたのかを理解することができた。はいと答えると、先生は寒いと言って私の手を引き、そのまま扉を閉めた。先生に触れられてやっと自分の外気に触れていた部分がキンと冷えていたことに気が付いた。男の人は総じて体温が高いのだ。
「すみません、ご心配をお掛けしました」
先生はそれを否定も肯定しない。十分である。その無口だが決して不愉快ではなさそうな先生の横顔を見ると、ああ帰ってきたのだと実感する。随分とこの家と猫に愛着が湧いてしまった。
「どうだったんだ、東京は」
冷えたからと台所で茶を沸かす。柱時計を見ると零時を回ったところだった。慌ただしい夕暮れであったが、その中でもくしゃくしゃにならないように大切に持ってきた紙袋。そこからそっと包みを取り出して、テーブルの上に置いた。ここで勿体つける意味もない。「どうぞ」とそれを押せば、先生があからさまに眉間にしわを寄せる。
「お誕生日おめでとうございます」
その怪訝そうな顔があまりに予想通りすぎて、どうしたら笑わずにいられるのか。先生はゆっくりと手を伸ばして、それを受け取った。花沢さんの時みたいに要らんと突っぱねられたらどうしようかと思ったが、とりあえず受け取ってはくれるらしい。
「……これを買いに行ってたのか」
「はい、随分と悩んでしまいました。難しいですね、贈り物って」
そうかと言ったきり、先生に言葉はなかった。しかし、贈った小箱が先生の手中に納められたままになっているところを見れば持っていてくれるようだと安心する。随分と悩んだ甲斐があった。
「先生の方も、私がいなくてゆっくりできましたか」
深い夜。室内にこもった乾いた暖房の空気は冬特有の匂いがする。
「……アンタがいた方がいい」
それがどういう意味でも構わなかった。ゆっくりと探るように沈んでいく水の底にも、きっと温度は存在しているだろうから。
第3章「カラマーゾフの猫」 完
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