「――っていうことがあったんですよ」
時は移りて、1月20日。先生の誕生日を二日後に控えた今日、来客があった。今度は誰かと言えば、担当編集の谷垣さんである。冬の間、篭りきりで進めていた原稿も大詰めを迎え、その打ち合わせに来たそうだ。本社は東京であるのに、毎度ご苦労なことだ。谷垣さんが来たはいいが、まだ先生の方の執筆の切れが悪いと当の本人は未だ書斎にある。客間で待つという谷垣さんにお茶を出し、話し相手になっていたら、いつの間にやら私の話になっていて、最近あった先生と兄弟の話をしたのだ。長く彼の担当をやっているだけあって、そこいらの個人的事情も承知しているそうだ。だからこそ、そんな余計な話をしてしまったとも言える。
「関わるなと言っても、彼は先生に会いに来るのであって、他に接点もないのに。本当、不思議な方です」
茶を飲みながら谷垣さんが話を聞く。そんな谷垣さんは秋田の生まれで、妹さんが一人いるそうだ。おまけに一緒に暮らしている恋人さんもいるとかで、なんとも羨ましい限りだ。彼女のことを話す彼の照れ臭そうな顔を見れば、それが幸せな恋であることはすぐにわかった。恋の痛みは、消えたと思っても不思議と残っているものなのだ。
「それは、嫉妬ではないんですか」
「嫉妬?」
思わず聞き返せば谷垣さんが「はい」と頷く。誰が誰に? 先生が、私と花沢さんに?冗談でも信じられない話だ。私の口からは「まさか」と、そんな薄い言葉しか出てこない。しかし、まさか。先生に限ってそんな感情を抱くはずがないだろう。
「すみません、話だけ聞くとそのように聞こえたもので」
そのあと、先生の執筆がひと段落ついて部屋に入ってきたことでその話は打ち切りとなった。私はそのまま部屋を出て、いつもと同じように洗濯、掃除と仕事をこなす。しかしその間もずっと谷垣さんの何気ない言葉が頭を巡った。嫉妬?考えたこともない。なにせ先生は、心底花沢さんを疎んでいるのだ。それと私が関われば、彼との関わりが増えてしまう。だから『関わるな』と。ただ、それだけのことだ。理由をつけてあれこれと考察を重ねるのは人間の特殊本能であるが、得てしてそれが正しいとも限らない。逃げるが勝ち。あの日、先生が見せた寂しそうな横顔も、物言いたげな双眸も、気づかなかったことにして生きる方が容易いのだ。
先生の誕生日まで時間がない。先日、花沢さんに教えてもらってから随分と頭を悩ませてきたはいいものの、なかなか良いものが見つからない。そもそもこの茨城の片田舎で一流作家先生に贈っても恥ずかしくない贈り物を見繕うのは骨が折れる。
さてどうしたものかと悩んだところで、これはいっそ東京へ戻るのが良いかもしれないと思い至った。茨城に立って次の春で一年となるが、まだまだ知らないところも多い。それならばいっそ知り尽くした大都会で、好きなだ百貨店を巡る方が効率が良い気がしたのだ。そうとなれば時間がない。実家に泊まれば荷物はいらないので急いで電車の切符を手配し、先生の誕生日前日に帰って来られるように段取りを組んだ。
「先生、あのお忙しいところすみません。明日から2日だけお暇を頂いてもよろしいでしょうか」
以前から休みは好きにとれと言われて、しかし休みを取って何かをする予定もなかったので「はい分かりました」と言ってきただけであった。ここで使わずいつ使う。先生の書斎の前で声をかければ、ガチャリと扉が開いた。ここ数日、外に出られていないので髭が伸び放題だ。
「急用か」
「はい、東京の方へ戻ろうかと」
先生は押し黙った。一瞬きらりとその猫のような目に不安が過ぎったような気もしたが、それを確認する術もなし。先生はそして静かに頷き、「わかった」とだけ口にした。いつもであれば皮肉交じりに私を揶揄うことに精を出しているが、こういう時はおとなしい子供のような顔をするのが可笑しい。私は礼を言って、すぐに部屋を離れた。仕事の邪魔をしてはいけない。二日分の先生の食事を用意する必要もあるのだ。なにせ、先生といえば私がご飯を作らなければ平気で、一食も二食も食事を疎かにしてしまう。一人で暮らしていた時分にはどうして生を繋いでいたのか不思議で仕方がない。
そして翌日。昼前の電車に乗り、東京へと向かった。年越しも正月も先生宅で過ごしたため、昨年の秋、先生の仕事について帰って以来の東京である。未だふるさと恋しという気持ちにならないのは、あの雑多なビル群がどうしても私の思うノスタルジアとかけ離れているからか、はたまたあの山猫の棲家が心地よいからか。まだ結論を急ぐ時ではないだろう。
東京へ着くと其の足で、東京駅内の百貨店を見て回った。私がいた時よりも少しは入っている店舗が変わっているような気もしたが記憶は曖昧である。さて私が先生の欲しいものなど知っているはずもなく、1階から11階まで全て見尽くして、結局、一人地下のジューススタンドで息を吐いた。何が欲しいかも知らない上に拘りもなさそうだが、彼の周りに彼に似合わないものも置かれていないので、ある程度選り好んで買っていることはわかる。花沢さんのプレゼントは見る気もなさそうだったが、あれがあの人だからなのか、それとも贈り物全般に対してそうなのか。まだまだ知らぬことばかりである。
いつだったか、谷垣さんが先生はファンレターの類を受け取らないので社の一角に溜まって大変だという旨の話を聞いた。考えれば考えるほど、何を贈るべきか分からなくなる。東京にまできてドツボにハマるのだから、やはり暇を二日もらったのは正解だったか。
その日はもう一つたくさん店の入ったビルを見て回り、実家へと戻った。悩むくらいならば買わない方がマシである。明日で決めきれるかも不安であったが、中途半端なものを買うよりかは、東京のオーガニックスーパーで買った肉と野菜ですき焼きでも作ろう。そう思った。
実家に戻ると、当たり前のように私の部屋が存在している。そこは確かに落ち着く空間であったが、あの殺風景の片田舎に一抹の恋しさを感じた。部屋の中に荷物を降ろして、スマートフォンを取り出す。丸二日、先生と離れることは、あの家で勤め始めてから一度もなかったことだ。食事の支度はしっかりとできただろうか。作り置きのおかずを作って、全てメモ帳に書き出しておいた。一人暮らしが長かったからレンジ含め、あらかた調理器具の使い方は承知しているはずだ。しかし、私が来てからというもの、それらを使っている姿を一切見たことがない。不安になった。温めるのが億劫だ、と出前を取っているならそれでもいい。年末に見つけた大量のカップラーメンはそのままにしてある。それを食べてくれてもいい。私が帰って、何もご飯食べてませんでした、なんて、本当にありえてしまいそうだから恐ろしいのだ。
私が連絡を取ろうか悩んで、部屋の真ん中に立っているとちょうど母が入ってきた。ご飯ができたと呼びにきてくれたのだ。
「どうしたの、そんなところでぼーっとして」
「先生、ご飯食べたかなあって思っちゃって」
「いやね、もういい大人なんでしょう。平気よ、気楽にやっているでしょう」
母の言葉には説得力があった。確かにいつも女は家の中にいては落ち着かないかもしれない。会話は多くはないが、最近は食事を共にしていることもあって、世間話やら仕事の話やら私が聞いて話しかけることもある。なにせ根本に人間不信のある人だ。たまには一人でいいのかもしれない。もっと言えば普段から連絡を取らないのに、こんな時に連絡をしても両者気まずいだけだろう。私は持っていたスマートフォンをそっとベッドの上に戻した。どうせ明後日には帰るのだ。休みの間まで仕事のことを考えていては意味がない。私はうんと頭を振って、母の後に続いた。ひとに作ってもらうご飯は美味しい。世の不思議である。
「ねえ、男の人への誕生プレゼントって何がいいと思う?」