妾の子、という言葉をこの令和の世で聞くことになるとは思わなかった。もちろんそういった立場で出生する子があることは理解できるが、実際に会って、張本人に言われると少なからず驚くものである。だからと言ってどうかするわけでもないが、それらの話を聞けばあの歳であんな立派な古民家に一人暮らしていることも理解できる。

 買い物かごを片手に、駅前のスーパーを目指した。今日は卵と鶏肉が安いらしい。それを知って、すぐに夕飯はオムライスに決めた。子供っぽいメニューであるが、私の作る半熟卵のオムライスは先生のような偏屈な大人にも大変好評である。冬の寒さを、心地よいとも言えなくなってきた今日この頃。茨城で迎えた初めての冬である。

 駅前の大通りに出る道、「あの」と突然肩に手をかけられた。わっと驚いて振り返れば、つい一時間ほど前まで家にいた彼である。驚いた私に謝罪の言葉を述べ、彼は私から手を離した。鼻と指先が赤くなっている。ずっと此処にいたのだろうか。

「突然話しかけてしまい申し訳ありません、あの先ほどは失礼致しました」
「はあ、」
「良ければ少々お時間を頂戴できないでしょうか」

 咄嗟に、先生の顔が浮かんだ。彼の心底厭だというあの顔。それがちらついて、どうにも素直にハイと言ってはいけないような気がしてくる。しかし、だからと言って昼間にこんなところを少ない荷物で歩いているような私だ。忙しいはずもない。

「でも、あのスーパーのタイムセールが」

 やや間をあけて、それでも絞り出せたのは何の役にもならない言い訳だ。言葉の意味わからずといった顔で、首をかしげる彼を見て無性に恥ずかしくなった。もう逃げられない。はなから逃げたいと思っていたわけでもないが、気分はずっしりと重い。どうしたって、ともに暮らすヤマネコの不貞腐れた横顔が浮かんでしまうのだ。

「あの、じゃあ…あそこの喫茶店でお願いします」

 自分で店を指定しておいてその店に入るのは実に初めてのことだった。年季の入った外の看板と打って変わって、中は古臭さもなく、むしろ洒落た照明と花瓶が目に入った。一番窓に近い席に通され、店の壁の黒板に書かれたメニューからカフェオレを選ぶ。彼も、私と同じものを頼んだ。

 向かい合って、初めて彼の顔をまじまじと見た。先ほど、先生に兄弟と言われた時目元が似ていると感じたのは正解だったらしい。それ以外は、彼の纏う雰囲気も相まってか、似ているとは感じなかった。腹違いというし、そんなものなのだろう。

 渡された名刺には、花沢勇作と彼の名前が書かれ、右上には仰々しい字で『警視庁』とある。おまけに彼の名前の上にも何やら堅苦しい長い肩書きが書かれている。気品のある人だとは思ったが、エリート警察官ということらしい。

「警察の方、でしたか」
「はい。今は父の下で経験を積んでいます」

 なるほど、父親も警察官。妾という、なかなかに時代錯誤な言葉出るくらいだ、やはり庶民階級の話ではなかった。警察が本妻とは別のところで子供をつくるとは、聞こえのいい話ではないが、それについて深掘りするつもりはない。そもそも、私は此処に長居する気もなかった。頂いた名刺を一応、自分の財布の中に仕舞った。代わりに渡す自分の名刺も、頂いたそれを仕舞うケースもない。それこそ、東京で仕事をしていた頃は持って使ってもいたが、柵はすべて都会の隅に捨ててきたのだ。

 私が向き直ったのを見て、花沢さんが私にいくつか質問をする。いつから此処で仕事をしているのか、働くきっかけは、不便はないか。先生が厭な顔をした理由が、また少し身を以て理解する。しかし、私はあの社会性のない作家とは違うので、質問一つ一つに丁寧に答えを返した。面白みもない話だが、彼は満足したらしい。先ほどはやけに短い滞在だったので、満足に先生と話もできていないのだろう。

「兄上に、貴女のような方ができて大変安心しました」
「そんな大袈裟です。私はただの家政婦ですよ」
「いいえ。以前、私が家事手伝いの方を勧めた時にはきっぱりと断られてしまったので、貴女とはご縁があったのだと思います」

 彼の目はキラキラとしていた。私はハッと声を出して笑い、うんと頷いた。彼がそう思うのならそれでいい。花沢さん独特の稀有な純真さは彼の美徳であり、日向を厭う人間にとっての天敵だ。焦げ付いた心の端っこを疎ましく思う。私も分類するならば、きっと彼とは反対岸にいる。話し相手の心うちなど察する気もないという態度は、唯一、この兄弟の似ているところだろうか。

「どうか兄上を宜しくお願い致します」

 形ばかり、はいと頷き、二人で店を出た。すっかりと日は傾いていて、駅から家路を辿る人波が寄せてきていた。私はそこでやっと今日は卵と鶏肉だったことを思い出す。もうこんな夕暮れだ、特売品は売り切れてしまっただろう。私の落胆した顔を見て、花沢さんも私が咄嗟に放ったていのいい言い訳を思い出したのか、ひどく申し訳なさそうな顔で、マネークリップから札を一枚抜き取り徐に私にそれを手渡した。これで買い物を、と一万円札を添えて。断っても譲らないので、仕方なく礼を言って受け取り、駅まで迎えが来ているという彼を見送った。

 今なら彼の嫌なところを、片手くらいは言えてしまいそうだ。


 花沢さんと1時間程度喫茶店で時間を過ごした後、いく予定だったスーパーで買い物を済ませた。ある程度の買いだめはしてしまうとしても、買い物で一万円を使ってしまうほど、ここいらの物価は高騰していない。おまけに、彼からもらったお金であれこれと買うのは気が引ける。お金というのはあれば嬉しいが、意味なくもらいと困るものだ。私のような全ての感覚が普通の庶民にはなおのこと。そこでやや迷い、結局客用の高い茶葉を、もう一つ高いものにして買うことにした。まだお金は余ったが、これはどこかにしまっておこうと思った。

 そんなことをしていたからか、帰る頃にはとっぷりと日は暮れ、夜道を歩く羽目になった。先生が家に一人。お腹は空いてしまっただろうか。念のためにスマートフォンはチェックしているが、ほとんど鳴ったことはない。

 門を開け、扉を開く。玄関に明かりが点いている。私が消し忘れたかと反省していれば、ガラリと開けた先に先生が立っている。念のために言い添えておくと、悠々自適に猫のような作家生活を謳歌する先生が、私の帰りを出迎えたことなど、この一年弱の間でただの一度もない。私は驚いて、「わあ」と漫画の登場人物のような声を出してしまった、無理もないだろう。

「…遅い」
「すみません、お腹空いてしまいましたか? すぐに作りますので」

 私は慌てて靴を脱ぎ、すぐに台所へ向かった。椅子に掛けておいたエプロンを手にとって、まな板を取り出す。すると先生が台所に入ってきて、ダイニングテーブルに腰を下ろした。この冬、猫よりも炬燵を愛してきたあの先生が、である。よほどお腹が空いているのか。ジト目で全てを語ろうとする先生の考えは、読めたことがない。お茶を飲むかと聞けば要らんと言われ、ツマミを出すかと聞いても要らんと言われる。打つ手なし。大人しく、彼の視線を受けながら夕飯作りを再開した。

 玉ねぎはみじん切り。鶏肉は食べやすい大きさに。母直伝のチキンライスはピーマン入りだ。全部まとめて火にかければ、鶏肉に火が通る頃にはお米が炊ける。タイミングもバッチリ。適量を炊飯器から取り出して、そのままフライパンの中へ。

「今日、あれに会ったのか」

 ちょうどケチャップを冷蔵庫から出そうというとき。聞こえてきたのは先生の声だ。振り返っても、いつもどおりのっぺりと無感情を貼り付けているだけ。しかし、手を止めてせっかくの食材を焦がすわけにもいかないので、ケチャップをそのまま白いご飯の上にかけた。トマトの匂いがふわりと広がる。綺麗なチキンライスだ。

「あれとは、…ああ、花沢さんのことでしょうか」
「用で駅前まで出た」

 成る程。その時、喫茶店の私たちが見えたと。隠すことでもないので、そうだと肯定するほかないが、彼のやけに重たい声やら浮かない表情に触れてしまえば、無用な罪悪感が湧き上がってくる。この感情に意味はない。

 私はそこでチキンライスを炒めながら、買い物の途中で彼に話しかけられたこと、私と先生のことを気にかけてくださって少しお話をしたことを伝えた。誤解など何もないはずだが、雇い主に常に誠実でいることは働く上では重要なことだ。

「先生のことをとても心配していましたよ。年に似合わず無邪気な方ですね」

 ちくり、それは嫌味だ。言ってからハッとした。慌てて「すみません」と付け加えて、口をつぐんだ。で過ぎた真似をした。自覚はあった。しかし、先生は私の焦りとは裏腹に、くつくつと笑いを喉で鳴らしている。何が可笑しかったのか、「傑作だ」と笑っている。否、それも嫌味かもしれぬ。先生は兎にも角にも偏屈な作家なのだ。

「あれとは関わるな、ろくなことがねぇ」
「言われなくともつながる機会などありませんよ」

 そこまで言って、ようやく今夜の夕飯が完成した。オムライス。半熟トロトロ卵、上にはケチャップで猫の絵を描いた。デミグラスと、クリームソースとケチャップ。どれが好きかと尋ねたときに、「ケチャップ」と答える。この偏屈を極めた作家の、そんなところが、私には堪らなく愛しく思えるのだ。不思議なことに。
「なんだこれ」
「どう見たって猫でしょう」