コンコンと、病室をノックする。はいと聞こえた声はひどく懐かしいが、夢の中で何度も私の心を押し潰しそうに握りしめていたそれとは違って聞こえた。紙袋に詰めた洋服、タオル、それと暇を潰せそうな本を数冊。もう片方の手にフルーツバスケットを持って、病室のドアを開ければ、葵は私の姿を見つけて、優しく微笑んだ。
明日見舞いに行くと伝えたのは、昨晩、パーティを終えてすぐ。「わかった」と言うたった四文字の返事では、どんな感情も読み取れなかったが、思ったよりも、ずっと穏やかな空気が流れていた。久しぶりと言って、状態はどうかと聞けば、入院中の方が体調がいいくらいだと彼が笑う。私は少し離れたところで腰を下ろす。持ってきた林檎を剥くと、彼が風邪をひいたときにはよく林檎を摩り下ろしてあげたことを思い出した。同じだ。私たちが制服を着ていた頃も、よくお酒を飲んでいた頃も、恋人同士だった頃も、全部同じだ。それが何よりも残酷な答えなのだろう。『犠牲のない人生などない』と言い切った先生の顔が、ふと頭を過ぎった。
「……で、今日は本当は何しに来たの。 何か言いたいことがあったんじゃない?」
寂しそうな彼の顔に、かける言葉などなかった。私は彼にはきっと敵わない。彼は私のことをなんでも知っているのだ。だからこそ、駄目だったのかもしれないけれど。
「あの頃、謝ってばかりで大切なことを、ちゃんと言えてなかったと思って」
「大切なこと?」
「そう。ありがとう、葵。ずっと楽しかったのは嘘じゃなかったから、ちゃんとありがとうって言わないといけなかったのに。自分のことでいっぱいで、言えてなかった」
ありがとうと、ごめんねを。何度伝えても足らない人。葵は、小さく笑って、自分の腕を目元に押し当てたまま、ばたりと体を横たえた。
「めっちゃふられた感じする。前より全然堪えるんだけど」
葵は、乾いた笑いに、少し湿った声を乗せて、ねえと私の名前を呼ぶ。誰が呼ぶそれとも違った。嫌いじゃなかった。でも、もうきっと最後だ。「好きだったよ」。彼の告白にうんと頷く。いいよとは、もう言えないけれど。彼が私にくれる全ての言葉は、別れに繋がっていることを、私も彼も知っていた。気づいていた。最後まで優しく温かな時間に、返せるものは、「ありがとう」しか、残っていない。
「ずっと大切に思ってる。だから、名前も、どこにいても元気で」
「うん」
「幸せでいて。俺が後悔しないくらい、ずっと」
最後にもう一度だけ頷いた。彼の赤くなった瞳に、「ありがとう」を添えて、病室を発つ。彼の人生に幸多からんことを願って。
第2章「猫と罰」 完
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