翌日は、前日以上に慌ただしい一日になった。朝食を終え部屋へ戻ると、そのまま谷垣さんが迎えにきて、前日の東京無線と全く様相の違う黒塗りの車に乗せられた。ここに谷垣さんがいなければ、あわや誘拐と疑う流れである。一番後ろの座席に並んで座らされ、運転手には聞こえないよう小さな声で谷垣さんに何処へと尋ねた。
「聞いてないんですか? パーティのために服を買いに行くんです」
「パーティ?」
何の話か。首を傾げる私を見て、同じように谷垣さんも首を傾げた。先生からは何も聞いていない旨を伝え、詳しく話を聞けば、どうやら今晩の先生を含む作家先生の受賞記念のパーティに私も参加するらしいのだ。全くの初耳である。此方は、礼儀作法も知らぬ一般庶民だ。急にパーティへ行くと言われても右も左もわからない。しかし、私一人が「困ります」と言ったところで、行程は滞りなく進んでいった。銀座のブティックで見るからに高価なドレスを充てがわれ、抗う間もなく試着室へと通される。それを着れば今度はヘアメイクだ。鏡が10個並んだ恐ろしい部屋の一角に座らされ、担当らしき女性に顔に粉を乗せられる。あれよあれよと言う間に化粧は終わり、丁寧に巻かれた髪は綺麗にまとめられ、舞踏会仕様の完成である。
全て終わって、時間は15時少し前。昼食を食べ損ねたが、ウエストをきつく締めてもらったお陰で空腹はさして感じなかった。会場へと向かう黒塗り車の中で、本日何度目かの謝罪の言葉を谷垣さんが口にする。彼も苦労人だ。
「しかし、あの尾形さんがパートナーとして貴女を連れて行くと言った時には驚きました。こういう席に出られること自体少ない方ですが、出るときはいつも一人なので」
また、東京の街並みが窓の外を風のように流れていった。谷垣さんの声も、それと同じく流れゆく。私が生まれ故郷を懐かしいと感じるのと同じように、先生も変わらなぬように見えて変化しているのかもしれない。不器用で臆病で、人間など愛さぬヤマネコが、私に向かってそろりと近づいてくるのであれば、それを突っぱねるほど情がない訳ではない。むしろ楽しみに思う自分もいる。まあこれとそれでは話が別だが。
「谷垣さんは悪くないです。何も仰らない先生がいけないんですからね。……全く。そんなお話を聞いたところで、そう簡単には許しませんよ」
車は、私でも知っているような上等のホテルの前で停車した。本日のパーティ会場はここの常盤の間で行われると聞き、ますます六畳一間の自室が恋しくなる。しかし、そんな私のことなど、もちろん御構い無しに、事態は進行していく。車を降りてロビーへ入れば、チョコレートカラーのテーラードジャケットをあっさりと着こなした先生が、私を待っていた。ブティックで渡されたテラコッタのドレスは彼と合わせたチョイスだったらしい。今までは困惑とわずかな怒りであまり思わなかったが、いざ、先生の前に立つと羞恥が膨らんでくるから不思議なものだ。装いなど露ほど興味もなさそうな先生に、まさか感想を尋ねるわけにもいかず、「お待たせしました」と見当違いなことを言ってしまった。待たせるも待たせないも、私は知らなかったのだ。
「驚いたか」
「当たり前です。前もって言ってくだされば、こんなご面倒はおかけしなかったのに」
ドレスの裾をひらりと持ち上げて、今日ここまでにかかった費用のことを言外に仄めかせば、先生は全く気にしていないという風に口元を緩めた。思った通りの反応と言えば、それまでだが、このひとの周囲への執着のなさは時々心配になる。先生は、出会った頃と同じように、つま先から頭のてっぺんまで私のことを眺めて、真顔のまま、まあいいだろうと言わんばかりに小さく二度頷いた。それを確認したところで、谷垣さんがチェックインを済ませてくれた谷垣さんが合流し、段取りを軽く説明したところで、一旦別れることに。谷垣さんは出版社の方でまたバタバタと動く必要があるらしい。知ってはいたが、大変なお仕事である。
「では尾形先生、また後ほど」
「ああ」
「早抜けしないでくださいよ」
まるでいつもそうしているかのような口ぶりに、思わず笑ってしまった。パーティ嫌い人嫌い。抜けたくなるのも無理はないだろう。しっしと先生の手に払われるように谷垣さんがぺこりと頭を下げ、受付の方へ歩き出した。最後に私の方にちろりと送られた視線は、頼みますよという意味でほぼ間違いないだろう。大きな背中が離れて、やがて人混みの中へ消えていくのを見送り、先生が軽く肘を突き出した。私はそれに軽く手をかけ、いざ戦場へとヒールを上げる。こういう場には全く不慣れであるし、実を言うと先生同様、私もあまり好んで人ごみに行きたいタイプではないが、これも仕事と思えば仕方がない。衣装を戦闘服だと勇ましく言い切ったのは、昔大好きだった少女漫画のヒロインである。
「歩きづらかったらこっちに体重をかけて構わん」
私の不安定な足取りにいち早く気づいた先生が、そっと反対側の手で私の腕を引く。体の距離は近くが、確かにこちらの方がいくらかマシなのでありがたい。小さな声で礼を言えば、また鼻で笑われた。
七談社の皐月賞の受賞パーティということで、百人を優に超える参加者の中には私の見知った作家の顔もあった。先生は可もなく不可もない受賞スピーチをこなした後は、私を連れて壁際に陣取り、向かってくる人にだけ挨拶をしていた。論ずるまでもなく社交場ではタブーな振る舞いだが、『作家』という社会性を問われない職業上、許容範囲だと思わないこともない。私はそんな先生の行動にいちいち肝を冷やしながらも、先生が挨拶をすれば隣で頭を下げ、そうでなければきまぐれ猫の足枷として立派に役目を果たした。パーティ開始時からずっと握っているグラスの中身は、とうに温くなったが、万が一にでもアルコールでふらつくわけにもいかないので、これはお飾りだ。綺麗な青色のブルームーンをゆらゆらと揺らしながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。人混みは苦手だが、じっとしているのは嫌いじゃない。腕を組むのだって、昨日の列車内に始まり、カフェで額に触れられたのと、三度目ともなれば慣れるものだ。むしろ心地よさすら覚えて、私は彼に身を預けた。出不精であるにも関わらず、先生は存外しっかりとした体をしている。もちろん、いま気づいたことだ。
時間はちょうど20時。壇上ではスポンサーの商品紹介が行われているところで、先生が外へ行くと言い出した。耐えた方だが、これではまた早抜けと言われてしまう。それとなく引き留めたが、「外の空気を吸うだけだ」と諦める気がないようだったので、私もそれに同行した。ここで壁の花と化して待ってもいいが、あまりに場違いであるし、置いていかれた場合の対処がわからない。
先生はよく知ったような足取りで会場を出ると、中央階段を上がり、バルコニーへと出た。少々早足になっていたのを見ると、よほど抜けたかったらしい。かくいう私も、そろそろ息が詰まっていたので、良い機会だと両腕を空に伸ばした。慣れない格好、慣れない靴、慣れない場所。肩こりの悪化は免れない。
「――悪かったな」
私がうんと伸びをしたところで、突拍子もない謝罪の言葉が投げられた。驚いて、「はい?」と聞き返せば、先生はバツが悪そうな顔で、もう一度同じ言葉を口にする。何に対してかと尋ねる前に、今回何も言わずに連れてきたことだと続く。確かに怒っていた。しかし、それはほとんど困惑と焦りに近いものだし、先生が言葉足らずで自由気ままなことは今になって始まったことでないことも、短い関係ながら存じて上げている。改まって謝られると逆に申し訳なく思うくらいだ。
「驚きましたけど。でも、こんな素敵な服を頂いて、美味しいものも食べられましたし、今じゃ感謝しているくらいです。今日は、ありがとうございました」
私もここらで改めてお礼を言えば、先生は納得のいかない表情を浮かべている。
「……アンタ、恋人はいるのか」
「はい?」
「よく聞きもせずパートナーを頼んだからな」
バツの悪そうな真の理由は、そういうことだそうだ。理解はできるし、その配慮は正しいが、仮に私に恋人がいたとしたら、パーティに参加してしまった時点でその謝罪はあまり意味がない。選んで後手に回っているのかは知らないが、本当に読めないひとだ。刺激を求めて作家の家を選んだ、過去の自分の判断に拍手を送りたい。
失礼と品を損なうことは承知で、声に出して笑った。痛快な気持ちだ。努めて声の大きさは抑えたが、それでも室内を行く人からの視線を感じた。そんなことは、目の前で猫のごとく目を丸くすれば雇い主の顔に比べればなんでもないことだ。
「すみません、でも可笑しくて。――大丈夫ですよ、恋人なんていませんから」
目元に滲んだ涙を拭う。大げさにやれば折角のアイラインが消えてしまうので、慎重にだ。先生は、どこか安心したような、しかし腹立たしげな複雑な顔でそっぽを向いた。機嫌を損ねてしまったらしい。すみません、と言ったが未だ膨れる笑いを隠しきれていない時点で、あまり意味はないだろう。
それにしたって、なせ急に恋人の話をと思い、ふと、東京へ来ることが決まった日の会話に思い当たる。母からの電話、友人の見舞い。友人というのは、狭義で言えば嘘に当たる上に、私がそれとなく隠したがったほの暗い感情に、聡い先生は気づいていた。私が本当は恋人がいると感じたのかもしれない。人に気を遣うことなど、聞かなくとも苦手なことがわかる人だ。
「もしかして、先日の見舞いの件でそう思われたんですか」
私が尋ねると、先生は口をへの字にして押し黙った。図星であったのだろう。珍しく見せた幼稚な表情も、人とうまく付き合えぬ不器用な有様が、なんとも言えず愛らしいと思えるあたり、私も随分とこのヤマネコに絆されてしまったようだ。
「その、先日の電話で話していた友人は、別れた恋人です。幼い頃からの友人でもあるので、母も知っていて、それで見舞いに行けばと言われたんです。彼と交際していたことは、恥ずかしくて、母には言っていませんでしたので」
交際を始めたのは、彼のことが好きだったからだ。勿論、恋愛感情ではなく、幼馴染として。しかし、それでも彼のことは尊敬していたし、きっと好きになれると思っていたし、実際、交際していた6年近い間、彼との時間はとても楽しく、きっとこういう風にこの先もずっと生きていくのだろうと思っていた。葵は誠実に私を愛してくれたし、私も同じものを返していたつもりでいたのだ。ずっと、ずっと。
「そりゃあ、なんでまた別れたんだ」
「実は結婚、というところまで話は進んでいたんですけれど。彼に、本当は俺のことを好きじゃないだろうと言われてしまいまして」
「――は?」
先生が、眉間に皺を寄せる。それもそうだ。6年も交際して、実は好きではないなんて。まして、それを向こうに指摘されるなんて可笑しな話である。しかし、葵はいつも正しかった。彼は私を一人の女性として愛してくれたが、私はいつまでも彼を幼馴染として愛していた。キスを交わし、体を交えても、燃え上がることのない私の中の熱を、彼は私自身が気づくよりもずっと先に気付いて、言うこともできずに黙っていたらしい。交際しているだけならいい。私は彼と過ごす時間を不快に思ったことなどない。でも、結婚となれば話は別だ。私の気持ちが追いつくのを待っていたけれど、きっとそんな日は来ないだろう、と。私の目も見ずに、ポツリと言った、葵の言葉が、いつまでもいつまでも私の心に残る。彼を、深く傷つけていたことだけが明白だった。
「途端に自信がなくなってしまいました。彼の言うとおり、私は彼のことを一人の男性として愛していなかったと気付いて、恐ろしくなったんです。結婚するということは、これからずっと、彼を傷つけることなんだろうって」
斯くして、私たちの恋愛関係は終わりを告げた。世間一般では、ウェスターマーク効果などと呼ばれている。結局のところ、私たちの6年間は、全てが彼の優しさに支えられていたことは間違いなく、私は自分の罪深さに恐れおののき、なんと伝えるべきかもわからず、最後まで謝罪を繰り返した。『これからも良い友人で。』葵の最後の言葉は、きっと叶わぬだろう。会社を辞め、人生につと迷っていたところに、先生の話が来たのである。
詰まらぬ身の上話になってしまったが、私の話を先生は最後まで黙って聞いてくれた。手摺に身を預け、秋の夜風に吹かれ、そこには緩やかな沈黙があった。
「――人を愛するとは、なんでしょうか」
人を悩ませて止まない命題について、この沈黙の中に投げ打ってみる。幾ら考えども、答えはなかった。葵との関係は確かに恋人同士であったが、私が彼に恋をしていたかと聞かれると、それに頷くのは違う気がしていた。恋よりも、もっと穏やかで、何色でもない感情。それは明らかに、彼から受け取っていたものとは違ったのだ。
「……アンタなら、いつか分かるだろうよ」
「でも、それじゃあ、彼にあんまり失礼な気がしてしまうんです」
「犠牲のない人生なんてねえよ」
秋の葉の匂いの中で、初めて先生と目が合う。彼の言うことは最もで、現に、私は愛とは何たるかを知らずに、彼の時間を犠牲にした。同じように私の時間も。
「……愛することと傷つけることの違いなんて、俺には分からないがね」
戻るぞ、と先生が手摺から背を離す。私もそれに続いて、粛々と会場へと戻った。
愛とは何かと赤児が問う。今の私だ。御託を並べても意味がない。ただ静かにその時を待てばいい。私を諭す先生の声が、するりと私の指先を撫でた。彼の言ういつか、私は誰を愛し、その心を燃やすのだろう。案外、その瞬間はふらりと訪れるのかもしれない。冬の気配を宿した秋の夜、身を預けた先生の体は温かった。