久しぶりの東京だった。茨城に越してまだ半年弱にも関わらず、随分と離れていたように感じる。タクシーの窓の外を流れる都会の高層ビル群に、この中で生きていた自分のことを思い出し、不思議な感覚が蘇った。ビルで埋め尽くされた空の下、スクランブル交差点を行き交う人々は軍隊のように足並みをそろえ、無機質に行進している。確かに、私はあの中の一人であった。側からはこんな風に見えていたのだ。抜け出してみると、どれもこれも現実味に欠けている。

 ホテルへと行く前に、一つ東京へ来たついでに次回作のモデルになりそうな大手銀行の本社ビルを見学するというので、私は2階ロビーのカフェで待つことになった。着いてきてもいいと言われたが、さして興味もない。銀行の話ならば、それこそ岩峰葵に毎週のように聞かされていた。残業が多い、係長は仕事ができない、後輩はミスが多い。他にも業務のことをウンタラカンタラと。似たような話ばかりで、しまいには「それは前にも聞いたよ」なんて言ってしまったりもした。そんな意味のない時間も覚えているということが、今となっては大きな意味を持っているのだけれど。

「一時間半で戻る、外へ出るならメッセージで残せ」
「はい、わかりました。お仕事、どうか頑張ってくださいね」

 いつもの朝のように先生と、谷垣さん、案内役の広報部の方がエントランスを抜けているのを見送り、私はアイスカフェオレを注文して、一番外の見える席に座った。会社に戻ってくる人、まだ早い時間だが会社を後にする人。人の流れを見ているのは、きっと昔から嫌いではなかった。飲み物を片手に、テーブルに肘をつき、よくこうしてひとを待っていた。人混みの中に会いたい誰かを探して、その誰かが、私のところへまっすぐ向かってきれくれるのを見るのが嬉しかったのだ。

 銀行、昼の14時半、東京。列車の中で食べたサンドイッチが意外にお腹に溜まっている。スマートフォンを見ても、引越しと同時に意味をなさなくなったそれに面白いコンテンツがあるはずもなく、ちゃぶ台の前で茶を啜る話し相手もいない。必然的に、願ってもないのに、葵のことが思い出された。

 彼は昔からとりわけ優秀だった。スポーツ、勉学を卒なくこなし、小さな頃からピアノを習っていたせいか、音楽の才にも恵まれていた。いつも彼の周りには人がたくさんいて、誰もが彼と友人になりたがる。まるで漫画のような話だが、案外身近にいるものだ。彼と私は実家が近く、親同士も同時期に子供を持ったということもあって仲がいい。私たちはいわゆる幼馴染であり、小さな頃からよく一緒に遊んできた。小学校、中学校と同じ学校に進学したが、思春期特有の異性に対する気恥かしさや照れ隠しで関係が拗れることもなく、お互いを出会った時からずっと名前で呼び合ってきたような二人である。私は彼の多才ぶりにほんのりと嫉妬をすることはあれど、それでもやはり良い友人として、彼を心の底から尊敬していた。高校、大学こそ別々の大学に進学したが、同じような時間で生活する学生同士、まして、家は二軒隣だ。顔をあわせることはしょっちゅうで、互いの家に行くこともあれば、一緒に勉強することもあったし、休日に買い物へ行くこともあった。あくまで自然に、私たちはとても長い間『友人』であり『幼馴染』だった。彼は確かに特別だったが、それは恋や愛ではなかったと、当時の私は思っていた。

 関係が変わったのは、大学4年の夏。無事に就職活動を終え、これからの人生というものを本格的に考え始めた頃だったように思う。なんとなく憧れとフィーリングだけで就職先を決めた私とは違い、葵はいつも先を見据えて行動する男だ。やれ仕事はどうする、やれ家はどうすると話を進めて、ふと、自然な流れで恋人の話になった。彼も私もこれまで恋人がいたことはあったが、特に葵に関しては、どれもあまり長く続かず、女性からモテるくせに理想が高いのだと揶揄ったりしたこともある。さらに言えば、私はこのほぼ完璧な幼馴染が真剣に恋に打ち込んでいるのを見たことがなかったのだ。だから、それは好奇心だった。

『葵って本当はどんな人が好きなの』

 グラスに手をかけていた葵は、その言葉を聞いて動きをピタリと止めた。目があった瞬間に彼がこぼした諦めのような笑いは、どんな意味があったのだろうか。喉に引っかかったままの小さな骨を、いつまでも飲み込めないまま生きている。

『――ずっと、好きだったよ』


「おい」

 深い思考の底にいた。聞き慣れた声に腕を掴まれ、意識を引っ張りあげられる。先生だ。奥の方に谷垣さんもいる。慌ててカフェの時計に目をやるときっかり一時間半が経過していた。空っぽになったカップは茶色く乾いていて、随分と長い間、昔のこと考え込んでいたとわかる。

「…気分でも悪いのか」

私がそれを否定するよりも早く、伸びてきた手が前髪の上から額に触れた。また、だ。まるで何でもないように先生が私たちの境目を超えてくる。不快ではない。しかし、心地いいとも嬉しいとも思えなかった。ただ逸る心臓の鼓動だけが答えを知っている。

「いいえ。少し考え事してぼうっとしていただけで。…すみません、行きましょうか」

先生の探る視線を交わし、隣の席に置いておいた鞄を引っ掴んで立ち上がった。

 その後、タクシーでホテルへと向かい、部屋に戻り、鞄を置いて息をついたら、今度は飯だと近くの品の良いレストランに連れて行かれる。今日はやけに行動的だと驚いていれば、そこに白石くんも合流し、久しぶりに顔を合わせた。東京へ戻ることを嗅ぎつけて、先生に「タカリ」にきたらしい。先生は終始面倒そうに死んだ目で黙々とラザニアを食べ続け、白石くんといえばそんなことには慣れっこなのか、FMラジオのごとく一人でしゃべり続けた。自由気ままで我が道を行く姿勢は、彼の美徳とすべきところだとは思うが、同じテーブルで食事を共にする私としては胃の痛いことこの上ない。頻繁に飛ばされる白石くんからの熱いウインクを交わしながら、私も先生に負けじと必死でジェノベーゼパスタを咀嚼した。美味しかったような気もするし、味が薄かったような気もする。おかしな話だ。帰り道、ホテルのエレベーター内で先生がおもむろに「楽しかったか」と尋ねてきたことも含め、摩訶不思議な夜であった。