私と先生の話をする上で、一つ転機となった出来事がある。確か仕事を始め2ヶ月はゆうに過ぎ、それは6月を終えようという頃だったように思う。梅雨の到来を間近に控え、しとしとと雨が降っていた。朝食を食べ終えた先生が、書斎に戻るとき、私に二つ封筒を渡し、ポストに出しておくように頼んだ。私は分かりましたとそれを受け取り、出かける際に忘れないようにと玄関の靴箱の上に置く。そこまでは良かった。問題が起きたのはその後で、昼食もとうに食べ終え、昼の三時、――否、16時を既に回っていた時。宅配便が来て玄関へ向かうと、靴のあたりに茶封筒が一つ落ちている。

 すっと肝が冷える。それを手に取ると、間違いなく朝に渡されたものだった。

 確かに二つ、郵便を昼に出したはずだが、他にもこの靴箱の上にはハガキやら何やらを置いておいた。それらと混ざって、落ちていたこれに気がつかなかったのだろう。宛名を見ると、耳にしたことのある出版社の名前が書いてある。仕事関係の郵便物だ。出せと頼まれていたのに、私の落ち度で遅れてしまうなんてことは許されない。私は急いで部屋に戻ると、カーディガンを羽織り、作りかけのご飯を急いで仕上げて、ラップをかけた。紙に、詫びと温め方、風呂は洗ってあとは湯を溜めるだけだという旨を記しておく。特に問題はないだろう。

 出し忘れてしまった郵便を、ウエストポーチに仕舞い、一旦先生の書斎の前に立つ。一つノックをした後で、急な用事外へでることを告げたが、まるで返事はなかった。仕事に集中されているときは、全くと言っていいほど反応がなくなるのは、もう分かっていたので、そのまま家を出た。タイミングよく来た駅前行きのバスに乗り込み、スマートフォンを開く。郵便の回収は、とうに終わった時間だ。

 調べれば、このバスではこの町の郵便局に間に合わないことがわかった。焦燥が喉をせり上がってくるが、慌てている場合ではない。どうにかする方法はないかと頭を巡らせたとき、ふと郵便局のお兄さんと話した時のことを思い出した。

 この町の郵便局は閉まるのが早いので、最終回収を終えた郵便物は二駅隣の地域支局に持っていくのだ、と。時間を調べれば、閉まるまで後一時間弱。これしかない。流れる車窓の景色を見送りながら、深くため息を吐いた。

 バスが駅に着くと同時に、飛び降りるようにバスを降車し、駅のホームへと駆け込んだ。スイカの残額がギリギリ足りるのを確認して、電車を待つ。もうすっかり日が傾いている。尾形先生のご飯の時間はまだだろう。間に合うだろうか。

 そうこうしているうちに滑り込んできた二両編成の鈍行に乗り込み、二駅隣で下車。スマートフォンの地図を頼りに郵便局へと向けば、確かにそこにはポツンと明かりが点いている。安堵で倒れそうになるのをぐっとこらえて、中へ。げっそりと痩せた老年の局員によって、郵便物は無事に受理された。

 なんとか間に合ったと胸を撫で下ろしながら、駅へと戻る。先ほどは必死だったので全く気がつかなかったが、なかなか栄えている町のようだ。勿論、今住んでいる駅と比較して、の話ではあるが。

 駅へと着くと、駅員が何やら掃除をしていて、とんと不思議そうな顔で今日の電車は終わったと言った。驚いてやや大きな声が飛び出たが、驚こうが喚こうが、無い物は無いというのだ。違いない。

 終電はもっと後のはずだと確認すれば、今日は鉄道会社の点検があると言われてしまった。都会ではあり得ない話である。さて、どうしたものか。二駅隣なら歩けばいいという話なのだが、如何せんその間にトンネルがあるのをつい先ほど電車の中から見たばかりである。地図アプリを確認しても、五時間28分とか出てきてしまってお話にならない。住む町との間には車用の道路しかないらしく、ひどい遠回りだ。おまけに、もうすぐ夏になるとはいえ、夜に山を越えるほどたくましい精神は持ち合わせていない。打つ手なし。ホテルに泊まろうにも、持ってきたのは小銭の入ったがま口とスマートフォンだけである。

 咄嗟に、先生の顔が浮かんだ。もしもこれが東京で、先生が親しい仲の友人か、もしくは会社の上司か。いずれにしよ、あの尾形百之助という作家でなければ、泣きついて迎えに来てもらおうという気にもなっただろうに。一番に仕事の邪魔をしてはいけないと思い、次に呼んでも来てくれなさそうだと思った。今が凍える真冬でも灼熱の熱帯夜でもない6月の暮れであったのが唯一の救いか。本日の寝床になりそうなベンチの上で、本日何度目かのため息を吐き出した。

 そこから、何時間経ったのか。近所の本屋に入ってみたり、コンビニを物色してみたはいいが、いずれも閉店時間が来た。結局もといたベンチに座り、野宿の覚悟を決めようかという、その時。電話が鳴った。知らない番号。何も考えずに電話を取れば、「おい」とひどく不機嫌そうな声が聞こえてくる。

「いまどこだ」
「はあ…って、えっ。先生?」
「いまどこだと聞いている」

 突然かかってきた先生からの電話に狼狽しつつも、二駅隣の町で帰る電車がなくなったと伝えた。しばらく沈黙が続いた後、「待っていてください」とまた一層不機嫌そうな声色でそう告げられ、電話は切れた。なんとまあ。

 番号に覚えがないのは、家の固定電話からかけてきたからだろう。私の連絡先は一番最初に伝えてある。その時に先生の電話番号も教えてもらったが、互いに一度も使う機会などなかった。初めてがまさかこれとは。羞恥極まれり。

 そこから40分ほどして、一台のタクシーが駅前ロータリーに入ってきた。
 わかってはいたが、降りてきたのは雇い人である。いつにも増して冷たい真顔を携え、じっと私を見下ろしている。居た堪れない。堪らず、頭を下げて謝罪の言葉を述べる。迷惑はかけたくないと思った数時間後にはこの始末だ。

「なぜこんな時間にここへ」
「実は先生からお預かりした書類を出し忘れていまして。慌てて大きな郵便局に来て、無事間に合いはしたのですが」
「列車点検で終電の切り上げを知らずに帰れなくなった、と」
「弁明の仕様もありません。すみませんでした」

 深く詫びる。もしかしたらクビだろうか。日が暮れて真っ暗なこともあり、先生の表情は読み取れない。一度強く風が吹き、先生は私に背を向け、タクシーの方へと促す。お金もない、交通の便もない。私は身を縮めて、先生の隣へと乗り込んだ。

 家へと向かう途中。先生の視線がこちらへと向かっているのに気づき、とうとう契約終了を告げられるかと身構える。おずおずと顔を上げ、姿勢を整えた。

「急ぎの時は伝える。こんなところまでくる必要はない」

 その時の私は、とても間の抜けた顔をしていたはずだ。思っていたものと違う。怒られて責められるかと思っていたのに、全くもって違う。「へ」と声を漏らした私に、先生は視線を合わさず、俯きながら言葉を続けた。

「日が伸びたが夜は危ない。あまり出歩かん方がいい」
「……」
「なんだ、怒鳴られたかったのか」
「ま、まさか!」

 狭い車内に、私の大きな声が響き、慌てて口を閉ざす。窓のところに肘をついた先生が、口元にうっすらと笑みを浮かべ、私の方を見た。気難しい人だとか、性格に難ありだとか。過去の己の印象を振り返り、石に頭を打ち付けたいような気になった。まさかこんなに慈悲をかけてもらえるとは。普段の様子から思うまい。

「まだやめろとは言わん」

 その言葉に、私は先程までの焦燥や不安がすっと溶けていくのを感じた。自然に笑みがこぼれる。まだ、やめなくて済むらしい。なんて幸運なんだろう。

「やめろと言われないように、今後は絶対に気をつけますから」
「そう肩肘を張るな。堅苦しいんだよ」

 プイッと背けられた顔に、急に親近感を覚えて、なぜかひどく嬉しくなる。遠い人だと思っていたのは、私だけだったのだ。すみません、と言いながら、私も前を向いた。ちろりとこちらの様子を伺う臆病猫の視線を感じながらの帰途はひどく短く感じた。

第1章「沈黙の猫」 完
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