先生は、毎朝8時過ぎには起床し、朝ごはんを食べる。決まったメニューで構わないと言われていたが、やはりお金をもらっている以上、多少は気がひけるのでご飯のお供は毎日同じものにならないように変えている。お漬物、生卵、とろろ。刻み椎茸の佃煮を出した時はそれこそ猫のように目を丸くしていて、苦手だとは露も知らず。あまりの分かりやすさに、失礼ながら笑ってしまったくらいだ。
朝食の後はすぐに部屋に戻られる時もあれば、散歩に出られる時もあり、昼も家で食べられる時と外で食べてきてしまう時とバラバラだった。一応、もしもの時に連絡先は交換してあるが、向こうが家のことで私に連絡をよこしてきたことはない。私が彼の分も昼食を用意しているということはあまり考えていないらしい。食費を出しているのは向こうなので、とやかく言うつもりもなかった。
昼の1時を過ぎると、必ず書斎にこもってお仕事をされている。その間はなるべく音を立てぬように掃除機はかけないようにして、その他の掃除や片付け、洗濯をやることにしているが。毎日やれば慣れて早く終わるようになる。そのため、仕事を終えた後の大抵の時間は部屋にこもって内職か、外に出て近所の探検をしている。今のところ、仕事に支障はきたしていないし、先生にも何も言われていない。
夜ご飯を彼が食べている間に、私は湯を沸かし、一番風呂が熱々になるように気を使う。そのついでに洗濯機も回してしまって、彼がお風呂に入っている時に明朝のための支度をする。私に対しても非常に警戒しているようなので、一緒にご飯を食べるのは気に障るだろう。彼が風呂を上がって部屋に戻った後、静かに一人で残りを食べている。
気難しく、愛想の悪い人だが特に生活の面でこだわりはないようで、気をもむことはほとんどなかった。苦手なものは椎茸くらいで、逆に好きな食べ物で「あんこう鍋」と言われた時に驚いたが、ここらの名物らしく、一度食べてみたいなと思った。
家事手伝いを探している作家、と白石くんは言っていたが、この程度の気難しさに、この高待遇であればすぐにいい人が見つかりそうなのに。わざわざ白石くんに話が回るあたり、彼の人間不信がまた透けて見えている。
仕事に慣れてからも、先生と私の関係は変わらなかった。特に会話をするわけでもないので、日々の生活態度以外で彼のことを知る機会はなく、著書を読んでみようと一つ買いはしたが、恥ずかしくなって結局鞄の中に仕舞い込んだままである。
茨城に越してきて、初めて人がこの家に訪ねてきたのは、五月の初めの頃の話だ。昼食が出来上がったのを先生に知らせに行く時だった。門のインターホンが鳴った。郵便か何かかと思って急いで玄関先へ向かうと、そこにはこれまた体格のいい、妙に暑苦しい顔の男性が一人。茶色の大きな鞄を抱えて立っていた。スーツであるところを見るに、宅配物の類ではなさそうだ。
出しっ放しにしていたサンダルをつっかけて、門の方へと向かう。花柄のハンカチで額の汗を拭っていた男性は、家から私が向かってくるのを見て、あからさまに驚いた顔をした。どうやら先生の関係者らしい。
「こんにちは。先生のお知り合いの方でしょうか」
「はい。担当編集の谷垣と申します。あの、尾形先生はご在宅でしょうか」
丁寧に頭を下げる谷垣さんに倣って、私もこうべを垂れた。どうぞ、と門の閂を開けて中へ手招く。敷居をまたぐ時に、「失礼します」と小さな声で言ったのを見て、しっかりとした家で育てられたのだなと思った。花柄のハンカチも、風体に似合わずお上品だ。もちろん失礼な意味でなく、褒め言葉としてである。
「おい、何を、……谷垣か」
「ただいまお茶をご用意しますので。お昼は応接室にお持ち致しますか?」
「いや、後で頂きます」
「畏まりました」
何やら嫌そうな顔の先生は、深くため息を吐くと、谷垣さんを置いてスタコラと応接室の方へと背を向けてしまった。気難しい上に自由な人とは思っていたが、やはり担当の編集さんともあまり上手くいっていないのだろうか。私が心配したところで仕様のないことだが、一緒に住んでいる以上、気になるのも無理はない。
来客用に買っておいた上物の茶葉でお茶を二つ入れ、私は先に昼食を済ませることにした。打ち合わせがいつまで続くかは知らないが、その方が後のこともスムーズに済むだろう。すっかり冷めてしまったお鍋を、火をかける。今日は安くなっていた鰈の煮付けだ。良い匂いがする。よし、と一人頷いたところで、後ろの方からガタリと台所の戸が音を立てる。驚いてとっさに振り向くと、先生が立っているではないか。
「昼食はもらえますか」
「は、はい。もちろん。しかし、打ち合わせの方はよろしいので?」
「今、谷垣が原稿を読んでいるところです」
なるほど。それは確かに時間がかかるかもしれない。私は急いで先生の椀にご飯と味噌汁をよそる。煮付けを皿に盛ったところで、先生のちょうど向かいの席に、自分の食事支度を済ませていたことを思い出し、片付けようと手を伸ばした。後で食べればいいことだ。しかし、それを見た先生は不思議そうに首を傾げ、食べないのかと問うた。まるで自分は気にしていないとでも言いたげな表情。確かに一緒に食べようと言われたことなど一度もないが、一緒は嫌だと言われたことも一度もなかった。
「先生がよろしいのでしたら、……一緒に頂いてしまいます」
「別々にしても片付けが面倒でしょう」
どうぞと言われ、私は自分の分の昼食も用意し、先生の向かいに着いた。特に何もないが、妙に緊張している自分がいる。先生とこうして面を合わせるのは、ここへきた最初の日、仕事の説明を受けた時以来だ。
風が古くなった窓をガタガタ鳴らす。私は味噌汁に手をつけ、今日もいい味になっていることを確かめてそっと胸を撫で下ろした。味の感想など一度も言わぬ人だから、どう思ってるのか、とんと知れない。時計がチクタクとなっていた。先生がここへ来て、まだ十分ちょっとしか経っていない。プロの編集とはいえ、そんなに早く原稿を読み終えることはないだろう。黙々と箸を進める先生の顔をそっと見上げて、私は茶に手を伸ばす。もうすっかりぬるい。
「谷垣さんは先生の担当になられて長いんですか」
「三作目からあいつが担当です。大方、得体の知れない新人作家を押し付けられたのでしょう」
「しかし今では先生も売れっ子じゃないですか」
なんとなく思いつきで振った話題ではあったが、いい感じに会話ができたと思ったのも束の間。「そうかもしれませんね」の一言で、会話はバッサリと打ち切られてしまった。やはりそう上手くはいかないものだ。まして一緒に食事をしたのも、会話を繋げようとしたのもこれが初めて。全ては時間が解決してくれる。
私が会話のネタ探しに苦心している間にご飯を食べ終えたらしく、先生は茶を飲みきって壁の時計を確認すると、スクリと立ち上がった。もう三十分。そろそろ時間なのだろう。私が新しいお茶はいるかと確認すると、頷かれたので、食事を中断してやかんを火にかけ、湯飲みに二つ、入れ直したものを盆に乗せて渡した。
「また何かご用があったら呼んでください」
「谷垣が、」
「はい」
「…谷垣が、茶が美味いと褒めていました」
その時の感情は、あえて言葉にするとすれば、驚きの類に入るのだろうと思う。私は思わず顔を上げ、その勢いに驚いた先生とパチリ完全に目があった。それだけです、と背を向ける先生に、私は慌てて礼を言った。
驚き。そのあとにこみ上げてきたのは、確かに喜びであった。
先生としっかりと会話をする機会も少なかったので、こうして他人の言葉とはいえ、褒められたのは初めてのこと。日頃感じていた不安が、少しだけ和らぐ。まだご飯は茶碗の三分の一ほど残っていたが、十分に満たされてしまったような心持ちがした。我ながら単純だと呆れてしまうが、それはおそらく私の美徳とすべき一つである。
時計の針は巡り、夕方の四時。ガタリと音がして、部屋から顔を出せばちょうど谷垣さんも応接室から出てくるところだった。失礼します、という言葉で帰るところだとわかり、私も針を針山に戻して玄関へ向かった。なんとなく想像はしていたが、先生は見送りには出てこないらしい。
「長くお疲れ様でございました」
「いえ、お邪魔しました」
朝に見たときよりもどっと疲れた表情をなされているのを見て、やはり大変なお仕事なのだと痛感する。しかも、相手がヤマネコ先生である。心中お察しする。谷垣さんは、玄関で大きな靴を履いたところで私の方を振り返り、一つ頭を掻いた。
「実は最初お見受けしたとき驚きました。まさか尾形先生が人を雇うなんて」
「以前から家政婦さんはいらっしゃらなかったのですか」
「はい。あの性格なもんで、人が家にいるのを嫌がります」
それは、――薄々感じてがいたことだが。まさか今まで誰も雇い入れたことがないとは思いもしなかった。あまり驚いているのがバレないように、努めて冷静な風を装う。苦笑を浮かべた谷垣さんは、私の顔を見て「困りごとはないか」と、心底真面目な顔で聞いてきた。その意図は分かるが、可笑しくて笑ってしまう。
「いいえ何も。気難しい方ですけれど、作家さんらしくて」
「はあ、そうでしたか。それならいいんですが」
礼を述べると、谷垣さんは顔の前で手を振り、なぜか私に向かって先生を頼むと頭を下げた。得体の知れない作家を押し付けられた、というのもあながち間違いではないのかもしれない。私はしかと頷き、先生よりも幾分か大きな背中を見送った。