第一印象こそ好ましいものではなかったが、それが逆に良かった。その後の尾形百之助という男の言動振る舞いは、最初に感じたそれと寸分違わず。新たに不満が募るということがなかったのだ。若干の横柄さは見え隠れするものの、彼には根本的な人間不信がある。それは、例えば洗濯物に決して下着を混ぜてこなかったり、留守の間には必ず財布と印鑑を懐に入れていったり。私の前で、酒を嗜むこともなかった。よくよく見ないと気づかないような生活のほんの一幕に、彼の本性が忍ばされている。私としてみれば、人として信用されていようがいまいがどちらでも構わず、彼の求めに応え、お給料さえもらえれば構わなかった。家賃と食費、光熱費を差し引いて、多少は減っているとは言え、しかしこの待遇に対しては十分すぎるほどの額だ。今更、雇い主の気難しさなど些事に過ぎない。

 尾形先生は、『ヤマネコ』という呼び名を非常に忌避しているようだった。それに気づいたのは、住み込みでのお仕事を始めて、一週間も経たない頃のことである。書斎のお掃除に入ったとき、壁一面に並んだ本を見て、それをぼうっと眺めてしまった。私も本は好きだが、流石にこんな量は読んでもいないし、何よりその時初めて尾形先生が、非常に作家らしく感じられたのだ。

 私の手が止まっていることに気づいたのか、机に向かっていた尾形先生がこちらに振り返っていた。私は自分が仕事中であったことをすぐに思い出し、すみませんと一言謝った。家事手伝いとは言え、部屋をジロジロ見られるのは嫌だろう。

「何か気になることでも」

 私は、そう聞かれ、またとっさに謝罪の言葉が口をつく。しかし、折角の会話の機会だ。口数の少ない尾形先生とは挨拶を交わすことも少ないくらい。私は話しかけられたことに少しだけ気が緩み、「すごい本の数ですね」と、その本の量に触れた。

「物書きであればこんなもんでしょう」
「やっぱりそうなのですか。なにぶん初めて見たもので」

 私は感心して、再度その本棚を見上げた。足元から頭の上まで、分厚い本がぎっしりと詰まっている。中には知っているものもあれば、知らないものもあり。その内、机の一番近い場所、――手に取りやすい位置に、『山田猫』と書かれた本があった。尾形先生の著書である。小難しそうなタイトルに、重厚な表紙。やはり、これを書いたのが中年以上の男性だと思っていたのも、無理はない。尾形先生と実際に顔を合わせた今これを見ると、確かに書いていそうではあるが。

「ああ、それではひとつ気になっていたことを聞いても宜しいでしょうか」
「…ええ」

 尾形先生は、嬉々として少し前のめりになった私に、確かに警戒していた。思うに、彼は会話というものをあまり得意とする質ではないらしいのだ。

「ペンネームというんでしょうか、山田猫というのは先生が考えられたんです?」
「いや。それこそ、それは白石が考えたものです」
「白石くんが?」

 山田猫、というあまりにチャーミングなペンネーム。齢六〇を超えるようなおじいさんが使っていれば、ある意味で可愛らしいとも思えるが。まさかこんな無愛想な二八歳の男性が使っていると思うと、それを疑問に感じてしまっても無理はない。自分を『猫』と称するようにはとても見えない。

 聞くと、それは大学時代に初めて小説を書き始めたとき、応募する際の名前に困り悩んでいたところ、白石くんからもらった名前だそうだ。確かに。愛想がなく人に懐きそうにもないところは猫らしい。私は到着初日に思ったことが、そのまま白石くんの考えと合致してしまったのだと思い、少し愉快な気持ちになった。

 そこから、ずっとその名前を使っているらしく、今更変える気もないらしい。確かに覚えやすい良い名前ではある。私は好きだ。犬派だが。

「なぜ? そんなに変ですか」
「そういうわけではないんですけれど。失礼ながら意外だなと思ってしまいました」

 確か、私が『ヤマネコ先生』という呼び名について触れたのはその時だったように思う。山田猫。巷では「ヤマネコ」なんて呼び名もありますし、と軽い世間話のつもりで言ったのだ。すると、尾形先生は、すっと眉をしかめ、薄ら笑いを浮かべた。静かに、しかし確実に部屋の空気が変わったことを覚えている。

「明治の時代、山猫とはどのような意味で使われていたかご存知ですか」
「……いえ、」
「浅草の芸者の隠語。特に芸が拙く淫を売る女のことを指したそうですよ」

 黒々とした瞳には光がなく、それは何か事実のように滔々と語られた。山猫、という愛称にそのような深い意味がないことは、私も尾形先生もおそらく承知の上で、そのようなことを言ったのだろう。私は、彼の気分を害したことに気がつき、サーっと体から血の気が引いていくような気がした。

「全くそんなつもりでは、」

 私が慌てて無礼を詫びれば、彼は努めて柔らかな表情で、それを諌め、「わかってます」と答えた。いつにも増して丁寧な受け答えは逆に不自然で、彼の腹の底など読めやしないが、この手の話題はしてはならないことだけは学んだ。

 部屋の空気も随分と気まずいものになり、私はさっさと掃除を済ませると、逃げるように部屋を出た。以降、私は尾形先生のことを”先生”と呼んでいる。