奥様は、私のことを「新八さん」と呼びました。私のことなど呼び捨てだって、いや名前なんて呼んで頂かなくても構いませんと口が酸っぱくなるほど言いましたが、奥様は笑って聞き流すだけでした。奥様というのは誰かの妻だからということではなく、本当に家の奥から出てこられることが殆ど無い方でしたのでそう呼んでいたのだと思います。はじめて奥様にお会いした時になんとお呼びすれば良いか尋ねると、前の妓夫はそう呼んでいたと仰るので私もそれに倣っただけで詳しくは存じ上げません。前の妓夫のことを聞いたのも、それが最初で最後だったと記憶しております。

 奥様は本当に美しい人でした。私はあれほどまでに美しい御方を生涯見たことはありませんし、きっとこの先も会うことはないだろうと予感しています。言わずもがなうちの散茶で、裏で高尾太夫と呼ばれていたのも最もな御方でした。うちの店は元々大通りのまた奥の通りにあるのですが、奥様だけはこの町外れの屋敷に住んで客を取っていらっしゃいました。理由は、奥様が盲人だからです。それが生まれたときから見えなかったのか、病か何かなのか、私は詳しいことは知りません。何せ私は親に売られたただの妓夫です。何の因果か、店ではなくこの屋敷で奥様の身の回りの世話と客の案内をする役を仰せつかっただけのこと。奥様に態々聞くことなど出来るはずもありませんでした。いいや、聞けばきっと答えてくれたとは思います。奥様はとても丁寧な方で、私にもいつも真摯な態度で接してくださいましたから。だからってそんな無粋な真似をしては男が廃るというものです。結局のところ大して気にならなったからと言っても嘘にはなりませんかね。

 奥様のお客は毎晩絶えることはありませんでした。毎晩高い金を払った男性が屋敷を訪れ、私はまず居間にお通ししました。そこから、奥様の身体の調子、気持ち──基準は分かりませんが奥様が俺を呼べば夜の始まりという訳です。俺はお客を奥様の部屋に案内してひたすらじっと朝が来るのを待ちました。きっかり九時までにはお帰りいただくのが規則でしたから、九時までに姿が見えないときは私が起こしに行ってお見送りしました。そのときいつも奥様の姿は見えませんでしたから、夜が終わると自分の部屋に戻られていたのだと思います。奥様のお客は様々でした。政治家、庄屋、成金、外交官。一生に一度だから、とこれまでの貯金を全て叩いてお見えになった方もいました。中でもここは旭川ですから、軍人さんは多く見えました。大尉中尉少佐。階級は様々、陸海どちらの制服も見たことはございます。しかし奥様はあまり軍人さんは好いておられないようで、お相手することは希だったように思います。一度軍人は嫌いかと尋ねたことがありました。今考えてみると出過ぎた真似だったとは思います。奥様は薄く笑いました。とても綺麗でした。

「新八さんは鏡で自分のお顔見られたことありますの?」
「は、はあ」
「貴方はとても男前でしょう」
「自分がですか、」
「ええ、…軍人さんは醜男ばかり」

 それ以上お話されなかったのでそれが奥様の答えだったのでしょう。私にはよく分かりません。男前だの醜男だの、そもそも奥様の目は見えていないのに何故そのようなことを仰るのか意味が分からなかったのです。正直に申しますと、これまでお見えになった軍人さんの中にはかなり男前だと思った方もいました。それを醜男ばかりと言われてしまうと、私には何の言葉もありません。

「見えるんです」

 奥様は見えていないはずの目で、私の顔を真っ直ぐ見つめました。

「貴方には見えていないものが私には」

 不思議と納得したものです。奥様が仰るのだから間違いないのだろうと思いました。


 私が最も印象に残っている方は、これもまた軍人さんでした。名は存じ上げません。奥様はいつもその方を”はじめさん”と呼んでいました。のちに、旭川の第七師団の軍曹様だと伺いましたが、私は軍のことはからっきし知識不足で、それが凄いのかどうかも分かりかねました。今更それを調べるのも躊躇ってしまって結局やらずじまいです。
 軍曹さまが屋敷へいらっしゃるのは本当にまちまちで、月に一度来るのが三月続いたと思えば、半年来ないこともありました。さて、何故この軍曹様が印象深いかと申しますと、まず第一に、居間で待つ間軍曹さまは必ず私に奥様の様子を尋ねました。「名前は変わりないか」と初めて聞かれたときは、はて名前とは誰かと思ったものです。後々奥様の名前だと教えて頂きました。そして私が変わりないことを伝えると、私のことも気遣って頂きました。「盲の世話は手間がかかるだろう」と。そして第二に、軍曹さまがいらっしゃると奥様は居間まで出迎えるのが常でした。このようなことをなさるのは、私の知る限り、軍曹様にだけでした。

「はじめさん」

 軍曹様を呼ぶ奥様は心做しか嬉しそうにも見えましたし、悲しそうにも見えました。光のない瞳が一層黒黒としていたように感じます。

「危ないから出てくるなといつも」

 軍曹様はそう言うと立ち上がって、奥様の手を取りました。奥様は微笑んで、二人で奥の部屋へと下がっていかれるのです。私はいつもと違って、おふたりの背中を見送りました。それは何とも言えぬ幸福な瞬間でした。奥様にとって軍曹様が特別な御方であるのは一目瞭然でしたので、私は敢えて確認することも致しませんでした。軍曹様にとっても奥様は特別な御方だったと感じたからです。奥様は軍曹様以外にも客を取りました。然し、奥様が最も女として──いえ、人として生きておられたのは軍曹様の時だけだったと思います。

 私が覚えている最期の夜は、雪の降る晩秋のことです。今日は珍しく客が来ないと思った矢先に、軍曹様がいらっしゃいました。いつもは日が沈む前から来られる方でしたので珍しいとは思いましたが、そのままいつも通り居間にお通しして、私は奥様に声を掛けました。居間に戻ると、軍曹様は座布団には座っておられず、縁側に立ってしんしんと降る雪を眺めていました。こんな寒いのに何故外なんかとは思いましたが、何も言わずにいると、軍曹様は不意に振り返ると私の方へと三歩四歩と歩み寄ってきましたので、驚いて私は一歩下がってしまいました。

「今日で、此処へ来るのは最後になる」

 軍曹様のお言葉に、私は酷く狼狽えたのも無理はありません。えっと間抜けな声が口から漏れた後、疑念が頭中を駆け巡ったのです。

「今まで世話になった」

 軍曹様はそれだけ言いました。奥様のことを尋ねることも、私を気遣うこともなさりませんでした。──何故ですか、私はそう申し上げたかった。出来ることならその胸ぐらを掴み上げて揺さぶり、奥様のことはどう思っているのかこれから先どうなさるおつもりかと問い質したい衝動に駆られました。しかしこんなひもじい妓夫が軍人さまに歯向かおうなど、一歩間違えたら殺されてもおかしくありません。いいえ、そもそもそんなことをする勇気は私にはありませんでした。

「はじめさん」

 そうしていつもと同じように、奥様は姿を見せました。軍曹様はここまで来たことを咎めることもしませんでした。軍曹様が近寄ると、奥様は自然な動作で腕を絡めふたり廊下を奥へと進んで行かれたのです。私はまたその背中を見送りました。ずうっとずうっと、その背中を見ていたい気持ちになって泣きました。今日が最期などと嘘であってほしいと泣きました。他人事なのにどうしてあそこまで感情的になれたのか少し不思議なくらいです。しかし、泣けました。
 その日、私は居間に蹲ったまま朝が来るまで泣いていました。つまるところ、私は奥様に幸せになって頂きたかったのだと思います。それが叶わないことは何より辛いことに思えました。

 朝が来て、八時を少し過ぎた頃に居間に現れたのは奥様でした。
「新八さん」
 私はどうせ涙を見られることもないとそのまま返事をして立ち上がりました。

「裏の庭の、物干し竿の下に銭が幾らか埋めてあります」
「はい」
「それを持ってお逃げなさい私は死にます。」

 奥様は確かにそう仰いました。また涙が出ました。ばれないようにと声を殺して泣きました。それなのに奥様はすっと真白の手を伸ばして私の頬に触れさすと、優しく涙を拭って下さいました。

「私には貴方の涙も笑顔も見えますよ」

 目は閉じられていました。ですがその雪のように白い肌に浮かんだ笑顔は美し過ぎて、この世のものではないように思いました。そこで私は恐ろしくなって逃げ出したのです。裸足のまま外に飛び出して、初めて裏庭に行きました。雪の中を素手で掘ると、僅かに血が滲みましたが最早気になりませんでした。物干し竿の下に埋まっていた菓子箱を取り出すとずっしりと重たく、私はそれを腹の下にしまって裸足のまま山道を駆け下りて街へ行きました。

 その後はすぐに北海道を出て、秋田で商いを始めて今に至ります。奥様がその後本当に亡くなったのか、軍曹様は本当に奥様とお会いにならなかったのか、私には知る術もありません。ただひとつ。奥様に軍曹様はどう見えるのか尋ねた夜のことを、今でも偶に夢に見ます。

「前に軍人さんは醜男ばかりと、」
「そうですね」
「軍曹様もですか」
「ええ勿論」

 朗らかに笑う奥様と再会しては、私の心の傷が抉られるように痛むのです。

「はじめさんのお顔だけは、この眼に映してみたかった、と…そう思いますよ」

 あの時抱いた嫉妬にも羨望にも似た感情は何だったのだろうかと、今でも考えることがあります。このまま私は、生涯奥様のことを忘れることはないのでしょう。

美しい世界の閉塞感

title by 草臥た愛で良ければ