最後のお客さんを見送り、ドアに掛けられたプレートをひっくり返し、道路のボードを回収して店仕舞い。そのタイミングを図ったように現れるその姿は、月明かりの届かない闇の中でも、ハッキリその人と分かるほど、見慣れたものになった。
「腹減った」
私たちにとっての、ただいまとお帰りのような。口に出すのは恥ずかしい言葉を代弁するのに、便利なぶっきらぼうな台詞。私はそれを笑って、カーテンを下ろした扉を、彼のために特別に開いた。ふわりと香ばしい匂いに包まれる。我ながら、お腹の空く良い香りだ。
彼はテーブルの向かい側で黙々と食べ進める。彼より食べる量の少ない私は、とうに食事を終えている。テーブルの脇に置かれたサングラスと黒のガラケー。あと4年も経てば誰もがスマホを持つ時代にかわると言ったら信じるだろうか。サングラス、私はない方が好きだけど。やんちゃそうな瞳が覗く。食べるところをじっと見られた彼は不機嫌そうだ。
「……なんだよ」
「いつになったら美味しいって言ってくれるのかな、と」
時計が12時を指す。日を跨いだ。夜は短い。特に、もうすぐそこに夏が迫っている。
「…いつも美味いよ」
合格。私がニンマリ笑う。今日泊まってく?と尋ねると、当たり前だと言わんばかりに頷かれた。少しずつ増える彼の私物。今、青椒肉絲がのったそのお皿は、店で使っているものとは別だと気づいているのだろうか。
「お風呂、もうすぐ沸くよ」
リビングへ戻ると、彼はテレビの前で胡座をかいている。あの座布団、いつの間にか彼のもの。私のお気に入りだったのに。テレビ、もう何年も見損ねているテレビシリーズの再放送。私が見ていたのはシーズン11までだっけ。新しい相棒を迎えるという予告に心踊らせたものの、忙殺されて見る間もない。撮り溜まった録画は1年前に全て消した。あのあとはすぐに後悔して、でもやっぱり見る機会はない。捨てて良かった、と今は思ってる。
「犯人、こいつ」
不意に静寂を破ったのは、彼。テレビに映る、人当たりの良さそうな笑みを浮かべる男性の罪は暴かれた。まだ放送時間は数十分。事件もひとつしか起きていないのに。
「分かるんですか」
現職警官には簡単なのか。私はミステリーをこよなく愛するが、未だかつて途中で謎が解けた試しはない。そもそも、解こうとすらしていないけど。
「前に見たんだよ」
「なぁんだ」
そういうこと、単なるネタバレだった訳か。
「アンタも同じ?」
「いや私はこれ見たことないよ」
「違くて」
「ん?何が?」
「俺と萩原。本当は死ぬはずだったのか」
しばし、テレビの音を除き、沈黙が空間を支配した。私は何か言いあぐね、どれも不適当な気がしてならない。ネタバレ。確かに私の人生は、いまさっき陣平さんがやったことによく似ている。ある一定期間までの物語のあらすじと結末を知っている。途中どこで誰が死に、何が犯人に繋がるかも分かってる。そしてそれを利用して、私は物語を捻じ曲げた。彼等に、いいや、自分に都合の良いように。
「萩原のときも、俺のときも、タイミングが良すぎて不自然だ。知っていたとしか思えない、…アンタが本当にただの一般人なら」
弁解の仕様がない。真実とは得てして人を幸せにするものじゃない。彼は今、葛藤している。私と同じように。私が一般人であるなら、何かを知っていたとしか思えない。そうでないなら、私は彼が捕まえる側の人間と判断せざるを得ないだろう。
「沈黙は肯定か」
彼の重苦しいため息が、私の肩にのしかかった。強くハッキリと。テレビの女優にも負けぬ声で、いいえと言う。
「言うつもりがないというのが答え」
陣平さんは振り返らない。物語は変わったのだ。これは、小さくなった名探偵の物語ではなく、私の人生にまつわる話。萩原研二と松田陣平を助け、愛され愛し、これからも共に生きてゆくふたりの話。
「私は何もかもを陣平さんに言うつもりはない。陣平さんが私に何でも話す訳じゃないのと同じように、私も全て包み隠さず話すことはしたくない」
これは裏切りではない、と強く伝えた。
「でも私の抱える秘密は、決して陣平さんを傷つけるものじゃない。私は貴方に嘘はつかない。言えないことは、言わないってちゃんと言う」
醜い嘘で塗り固めるつもりは無い。だから、信じてほしいのだと思った。私は陣平さんに信じてほしい。まっさらな気持ちで、愛してほしい。たまに可愛げのある嘘をつく。馬鹿野郎と笑って小突くような、そんなふたりでいたいのだ。
「わかった」
「へ」
「疑った訳じゃない、ただ、気になっただけだ」
彼は立ち上がり私の横をすり抜ける。すれ違いざまに、前髪がくしゃりと崩されて、悪戯に彼は泣くなよと言ってお風呂場に消える。私は水音を背に、なぜだか泣いた。