忘れられない夜が来る。そんな予感がしていた。きっと、いつかのあの夜も。
一件の着信。それがあるまでは本当に平和だったのだ。犯人は少年探偵団の活躍で捕まり、警察に連行されていった。松田さんは一人浮かない顔をしていたけれど、それも気のせいだったらいいと思いながら、私たちは記憶が戻るようにと広い園内を遊び回った。
夜になり、暗くなっても明るい園内。綺麗ですね。確かにそう言った時だった。
松田さんのケータイに着信があった。相手はコナンくん。
話している内容は聞こえなかったけれど、怖い顔をした後に得意げな笑みを浮かべているのを見て、「ああ、分かったんだな」と思った。この事件の真相が。
「おい」
「はい?」
「アンタ、今日走れるか」
「走るつもりでは来てないですけど」
松田さんが、ケータイを自分のポケットにしまい、彼の服の裾を掴んでいた私の手をとる。「え」と声が漏れると同時に目があった。あ、かっこいいなこの人。顔がいい。
「じゃあ、手離すなよ」
「なにが“じゃあ”なんです!? ……ちょ、ちょっと!」
走り出した途端に、私たちの後ろを拳銃の弾が飛んでいく。え? 拳銃?
「な、何事ですか!?」
「アンタを狙ってる!」
迷いのない足取りで、松田さんがひとの多い場所から離れてゆく。あんな場所に留まって、私を狙った弾が誰かに当たったら大事件だ。いや、私に当たっても大事件なんだけど。てか、ここ本当に日本ですか? 拳銃持った人間に追われるとか夢でも見たことないけど。
「はっ、それ前にも言ってたぜ」
「一体どんな人生を……」
「ボートに飛び乗れ」
「え、うわ」
アトラクション用のボートに飛び乗り、松田さんがそれを動かす。ガタガタ揺れる小型ボートはスリル満点で泣きたくなる。
「来たぜ」
なぜか楽しそうな顔で追われる松田さんはカッコイイんだけど、それを楽しむには命が足らない。なんでみんな簡単にボートの操縦ができるんだろうという単純な疑問は置いておく。ボートで追ってきた犯人が、まだ拳銃でこちらを狙っているので。
「無理無理、死ぬ」
「頭下げろ」
「言われなくてもやってます! ぎゃあ」
背負っていたカバンに弾が掠める。嘘でしょ。めちゃくちゃ近いけど。それより目下の難所は目の前の滝である。前が見えない。
「松田さん、滝!落ちる!」
「落とさねえから、しっかり捕まってろ」
「いや無理だって」
船が跳ねるようにして空を舞う。空がとても近く感じて、死ぬ時ってきっとこんな感じなんだろうなとふと思った。思った瞬間に勢いよく水面に着地したので、お尻の痛みでそんなセンチメンタルな感情が全部吹っ飛んだけど。
「ほら走るぞ」
やっと陸に着いたと思ったら、私の手を無理やり引っ張り上げた松田さんがまた走り出す。緊張と恐怖と疲れで心臓も肺もオーバーヒート寸前だ。もう無理だって思うのに、走れと言われたら足が自然と走り出す。
人間の生存本能か、それとも恋する女のなせる技か。兎にも角にも必死である。松田さんが振り返って、私の必死すぎる顔を見たら百年の恋も冷めちゃうかもってくらいには。
「……いつまで追ってくるんですか」
「アンタ殺すまでだろ」
「殺意高」
犯人は私に顔を見られている。だから私を殺して口を封じなければならない。言っていることは分かる。焦りも分かる。心底辞めてほしいけど、それが殺人犯の心理だ。多分。私の記憶があるとかないとか関係なしに、もう不安で夜も眠れないんだろうな。私もだよ。
手が、震えている。死ぬかもしれない、殺されるかも。そう思ってる。
繋がった手の力をちょっと弱めれば、すぐに彼の目が私を向いて「なんだよ」って何かを催促するみたいに聞いてくる。
「一緒にいたら、松田さんまで殺されちゃうかもしれませんよ」
「バーカ、そんな簡単にやられっかよ」
「で、でも」
「それに——」
この世界に絶対はない。松田さんがどれだけ優秀な人間かは知らないけど、でも、絶対はないから。松田さんはここで死んではダメだと言っている。私の心臓が、血液が、私たちの運命がそう頭のどこかで叫んでいるのだ。
「——アンタが死ぬなら、俺も死ぬんだよ」
どこかで、光が弾ける。それが眩しくて、ちょっとだけ目を細めた。