『記憶喪失です』と言われた時、だからかと納得した。目が覚めた時からずっと、頭の中が空っぽなのだ。これまで自分がどう生きてきたかという過程がすっぽり抜け落ちていて、それなのに社会常識だけは覚えている。体に染み付いているとでも言うべきか、不思議な感覚だった。
ホテルのトイレで事件に巻き込まれて、そのショックで記憶が飛んでしまった、と。
警察と医者からの説明はこうだった。なるほどとその時言いはしたが、そんな映画みたいなことがと思ったし、正直いまでも理解しているかと聞かれると微妙だ。
私は誰で、今まで何をして、どう過ごしてきたのか。
分からないことしかなくて不安だった。こうだったよと言われても「そうなんですか」としか言えないし、親だという人の顔も親友だという人の顔も分からない。自分というものがひどく不確かで、ゆらゆら揺れているようだった。
「——ん?」
「疲れちゃった? 休憩してから帰る?」
「平気だよ、ありがとう。……えっと、コナンくん?」
ならいいけどさ、と前を向き直したのは江戸川コナンくん。ご近所に住む小学生だ。
今日はコナンくんと、コナンくんがお世話になっている毛利蘭さんと鈴木園子さん、それと前々から顔を合わせることの多い松田さんと一緒に外に出ていた。全員前から仲良くしてくれていたらしい。私が家に引き篭もりがちなのを心配して、おでかけに誘ってくれたのだ。
「なんか名前さんにそう呼ばれるのは変な感じするね」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ私は君のことなんて呼んでたの?」
「うーん、ヒミツ!」
「なんでよ」
「なんでもだよ、名前さん」
呼び方ひとつ隠すことないのにと思いながら、複雑な顔をするコナンくんの横顔を見ていると、過去の私が何と呼んでいたのかますます気に掛かる。
例えば、すごく恥ずかしい呼び方をしてたから今さら呼ばれたくない、とか? そんな様子には見えないけど。
「おい、人多いから気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます」
コナンくんと話しながら駅のホームで電車を待っていると、松田さんが後ろから手をひいてくれた。これも警察の仕事だから、と頻繁に私の元へ顔を出してくれる松田さんは警察で何の仕事をしているんだろう。
守るのが仕事ってことは、刑事さんか。SPとか? 外ではサングラスをかけていることが多いからSPっぽいけど。前に事件で関わったことがきっかけで親しくなったと聞いている。私のような一般人がSPとマグレでも関わることなんかあるかな。
「ね、コナンくん」
「なーに」
「松田さんってさ、——」
松田さんが人混みに押されて少し離れる。これ幸いとコナンくんに松田さんについて聞こうとした時だった。
ホームに電車が来るとアナウンスが流れる。かがんだ私の背中を、誰かの両手が力強く押したのだ。
「えっ」
「——名前さん!」
バランスが保てず、そのまま前のめりになって線路へ落ちる。
迫る電車の大きな音。人が落ちたという大きな声はホームから冷静に聞き取れたのに、なぜかくっついたしまったようにそこから動き出せない。
あ、死ぬかも。
「名前!」
目の前に電車の光が迫ってきている。怖くなって、ぎゅっと目を瞑る。暗闇の中で、私の名前を呼ぶ声も、はっきりと聞こえていた。
::: 生きているというのはもはや奇跡なのかもしれない。
線路への転落事件から、あれよあれよという間に病院へ連れていかれて、精密検査を終える頃にはすっかり辺りは夕方だった。体も脳波も異常なし。私は記憶以外は健康な上に丈夫らしい。
「ほら」
「ありがとうございます」
検査に問題はなかったが念の為、今日一晩は入院して行った方がいいということで先々週まで使っていた病室へ逆戻り。
今はベッドの上で松田さんから小さなペットボトルのジュースを手渡されている。
「今日は、本当にありがとうございました」
線路へ転落した時、慌てて飛び込もうとするコナンくんを抑えて線路に飛び込んできたのは松田さんだった。人をかき分け、私のところへ一直線にダイブする。動けない私のことに気付いたのか、そのまま私を持ち上げて、ホームの下のスペースで間一髪、死をまぬがれた。
あの時、松田さんが来てくれなかったら、私は間違いなく死んでいた。
走馬灯が流れれば記憶が蘇るかも、なんて誰に言っても叱られそうな冗談だ。
「いや。俺がそばにいたのに、防げなくて悪かった」
「そんな。犯人は、タイミングを狙っていたんでしょうし」
事件に巻き込まれて記憶を失くした。
ただそれだけのことではなく、その事件の犯人が私の命を狙っている。それが警察の見立てだ。だから今日のことも、明確な殺意を持っての犯行。あの時、あの場に犯人がいた。
「私の危機意識が足りませんでした」
「怖かっただろ、今日はゆっくり休んだ方がいい」
松田さんが、私の肩にポンと手を置いて立ち上がる。
もう帰るらしい。
「松田さん」
「なんだ」
「助けていただいてこんなこと言うのも変ですけど、あんまり危ないことしちゃダメですよ」
「……!」
「一歩間違えたら、2人とも死んでたかもしれないし」
何の迷いもなく私の元へ飛んできてくれた人。彼に触れられた肩が熱い。彼が私に向ける視線は、私に向いているのにそうじゃないみたいで心が落ち着かないのだ。
私が失った記憶の中で、この人は私にとっての何だったのか。彼が言わない記憶の中の、私はどんな存在なのか。それを知るのが、少しだけ怖い。
「アンタにだけは言われたくねぇな」
「え?」
「なんでも。じゃ、また」