一週間、安静にしたのち彼女は退院することになった。
連絡を受けたのは俺で、自分たちはこちらに車がないからと名前の両親から迎えを頼まれたのだ。信頼しています、という言葉が松田には嬉しくて辛かった。
彼女から「すみません」と言われることも、彼女の両親から「ごめんなさいね」と謝られることも、そんな必要はないからこそ、やるせない気持ちになる。
「すいません、わざわざ。仕事もあるのに」
「気にするな。仕事でこの辺りの用があったからついで、だ」
「やっぱり。警察の方ってお忙しいんですね」
「……まーな」
午前中は休暇を取ってきている、というのをとりあえず隠すことにして、松田のマツダは彼女の店へと向かう。慣れた道だった。カーナビも要らない。何度も、何度もここへ来ている。
「これが、私のお店」
「ご両親から譲られたって聞いてるぜ」
「すごい、ですね」
名前は驚いた様子で店のドアを開いた。見慣れた景色。彼女の城であったはずなのに、家主の目には今は何もかもが新鮮に映っている。へえと言いながら中を見回す彼女が、少しだけ別の人間のように思えて怖くなる。そんなはずはないのに、そう思えてしまうのが恐ろしい。
「どうだ」
深い意味はない問いだったが、彼女はそれを「記憶は思い出したか」という意味に受け取ったらしくハッと悲しい目をした後で、残念そうに首を横に振った。あんな事件がきっかけになった手前、そう簡単に思い出すとは松田自身も思っちゃいない。
何事も手早く済ませるタチではあるが、彼女のこととなれば話は別だ。気長にやるさ。
「でも、なんとなく居心地がいいので。この店を好きだったんだろうな、と思います」
「……だろうな」
「松田さんも、よくいらしてくださってたんですよね」
「ああ」
「じゃあ、早く思い出さなきゃ」
不安なことも怖いことも多いだろうに、それでも笑って見せようとする彼女は、やっぱり何があっても名前なのだ。松田はそう実感する。記憶がないだけで遠く感じるなんて、そんなこと思っている場合じゃない。
「アンタの記憶が戻ると信じてる」
「はい」
「でも、戻らなくても構いやしねえよ。そんな気負うな、疲れんだろ」
少しくらいなら、許されるだろうか。
松田の伸ばした手が、彼女の髪を一度だけ撫でてすぐに離れる。驚いたように目を丸くした後、それはすぐに柔らかく細められて、小さく名前が頷いた。
彼女がいるなら。生きているなら構わない。でも叶うなら、もう一度松田の名前を呼んでほしかった。あの声で、あの顔で。そう願ってやまない朝だった。
「松田さん」
「あ? おー探偵坊主か」
「僕、江戸川コナンって名前なんだけど」
「知ってるよ、マセガキ」
名前の店を出たところでコナンに声をかけられ、仕事までまだ時間があるならと松田はポアロへ連れていかれた。今日は降谷は休みらしい。なんでこのガキが安室透のバイトのシフトまで把握してるんだと思ったが、それには突っ込まないでおいた。松田は本来、面倒ごとには首を突っ込まないタイプの男である。
「どう? 名前さんの様子」
「まあ、変わりねえな」
「そっか。じゃあ記憶もまだ」
「そう簡単には戻らないだろ」
コナンは悲しそうな顔で、アイスコーヒーを飲んでいる。ミルクもガムシロップも入れず。
家が近いからか、彼女が事件に巻き込まれる時にいつもこの小さな探偵がそばにいるせいか、やたらと彼女はコナンを気に入っているようだった。名探偵、名探偵とこのたった6歳の少年を呼ぶのだ。
そのやたら尊敬と興奮が混じった声も、今や懐かしい。
「名前さんにどこまでお話ししたの」
「どこまでって」
「今回の事件のこととか、……ふたりが、恋人同士だったこととか」
「なんでんなこと聞くんだよ」
「いいじゃん、教えてよ」
「ったく。……事件のことは話したぜ。経緯が分からねえと不安だろうからな。恋人同士ってのは、混乱するだけだから、まだ」
彼女の記憶が戻るまで、言うつもりはなかった。それでも小学生相手に『まだ』なんて言ったのはほんの強がりだった。話す気がないだけで、恋人をやめるつもりはない。いざとなったらやり直すまでだ。
「それでいいの? 松田刑事は」
「同じようなことばっか聞いてきやがって」
「え?」
「ガキに心配されることは何にもねーよ」
その小さな頭を指で突けば、年相応に膨れた顔を見せるから。いつもそういう顔しとけ、と松田が言う。マセても背伸びをしても、コナンがどれだけ賢くとも守られるべき子供であることには変わりない。余計な心配に気を揉むことは、松田の本意じゃなかった。
「それより心配なら遊びに行けよ、しばらく店もやらないで暇だろうし」
「うん、そうするよ」