悪いことをしなくても不幸は訪れる。職業柄、何か起こることには訳があると思って捜査に当たっているが、それがほんの偶然の場合もあると知っている。
松田は空虚な目で宙を見つめる恋人に、かけてやる言葉を見出せなかった。
薬の匂いが充満する病室の中、ベッドの上で彼女は一言も発さない。普段であれば、今の松田を見て笑いながら「どうしたの」とでも言うだろうに。「そんな辛気臭い顔してさ」。彼女の言いそうなことが、彼女の声で再生される。でもそれが、目の前にいる彼女の口から発せられることはなかった。
「陣平ちゃん、」
「……ああ」
「今、白鳥さんの知り合いの心療内科の先生が来たって」
「そーかよ」
白鳥の妹の結婚パーティーに呼ばれ、当然のように恋人を連れて行った。白鳥からぜひ彼女も一緒にと言われていたし、ああいう場所にはパートナーを同伴することも珍しくない。今までしなかったのは単純にいなかっただけ。
だから彼女がその化粧室であんな事件に巻き込まれるなんて夢にも思わなかった。叫び声を聞いて駆けつけた女性用の化粧室。血塗れになった佐藤とその傍らで意識を失った恋人の姿。
一瞬で血の気がひいた。死体も怪我人も山のように見てきたのに、それが彼女であると言うだけでまるで生きた心地がしなかった。
『名前』
あの時。松田の口から溢れたあまりにもか細い声を、あの時隣にいた親友は聞いていただろうか。それはすぐに走り込んできた関係者の足音にかき消されてしまったが。
結局、重症だったのは佐藤だけで彼女に外傷はなし。佐藤の回復を祈るばかりと思われた。それなのに、意識を取り戻した恋人の目には生気がなく、ひどく頼りなさそうな顔をしていた。
世界で一番愛する人間に、「誰ですか」と言われた時の衝撃は、それなりに濃密な人生においても、忘られないものになりそうだ。
松田は医者の到着を待たずに抜け出した病院の隅っこで、煙草に火をつける。肺を満たす空気の苦さに、ようやく自分は生きているんだと至極当たり前のことを思い知る。
なんでだよ。どうして——。
そんなことばかりが頭の中を巡った。何故彼女だったのだろう。自分に連れられてあの場所にいただけの彼女が、なぜこんな目に遭うのだろう。分からない。分からないからこそもどかしかった。
強く握った拳の中。まだ2本残っていた煙草のケースが歪む。
『煙草は嫌だけど、煙草吸ってる陣平さんは好きなんだよね』
彼女が記憶を失って、彼女の中から自分という存在が消えてしまった。それなのに、何を見ても彼女の姿と声がそこにあるのだ。痛かった。心が。体も千切れてしまったみたいに。そう思うことすら久しぶりで、「くそっ」と吐き出した声は、思うよりずっとずっと弱々しかった。
:::「逆行性健忘、ですか」
「突然の疾病や外傷によって、それが起こる前のことが思い出せなくなる記憶障害の一つです」
今回のケースは、目の前で佐藤が撃たれたことが大きなショックになったことが原因である。滔々と語る医者の声が少し離れた場所から発せられてるように聞こえた。
隣で話を聞いていた親友が黙りこくった松田の代わりに「記憶は戻るのか」と尋ねる。曖昧なことは断定できないのが医者である。言ってくれたのは普通の生活に必要な知識はある、というほとんど慰めに近い言葉だけだった。
「とりあえず何日か入院して様子を見てみましょう」
分かりました。松田がそう言う。離れた場所へ暮らす彼女の両親にはもう連絡済みで、明日以降なるべく早くこちらへ来ると言われていた。
松田は煙草の煙が溜まったみたいに靄のかかった頭を振って、重い足で病室へ向かう。
一人きりが眠る個室のベッド。そこに横たわる彼女は、つい数時間前まで松田のネクタイを直して笑っていたそれと変わらないのに、ひどく遠い目をしている。
「あの、」
「ん」
「私、記憶がないみたいで、その……貴方のことも、覚えていなくてですね」
「ああ、知ってる」
「すみません」
怯えたような、悲しんでいるような。とにかく初めて見る顔だった。どれだけ恐ろしい場所にいてもそんな顔はしなかったのに。ビビった顔で、でもなんとかなると根拠のない自信を持って、これまで本当に“なんとかなって”しまった。
記憶がないのは恐ろしいだろう。怖いだろう。だって目の前にいる松田のことも分からないのに、男は親しげに自分に話しかけてくるのだ。怖いに決まっている。
「謝んなくていい」
「はい。あ、でも」
「いいから。アンタは寝な」
病室の青白い蛍光灯に透ける彼女の髪を梳いてやりたかった。でも、手を伸ばすと彼女の顔の不安と恐れは色濃くなって、松田はそっとその手を戻す。傷付けながら傷ついている。恋というのは不器用なのか器用なのか全く分からない。
「俺がいちゃ落ち着いて寝れねえな。外にいるからなんかあったら声かけな」
「あ、ありがとうございます」
何食わぬ顔で病室を出て、その扉に背を預けたまま座り込む。松田は、しばらく立てる気がしなかった。