……三井くんが、私の部屋にいる。変な眺めだった。朝出かけた時と何も変わらないはずなのに、そこにあるテーブルもイスも小さく見えて、天井なんか露骨に低いような気がする。果てのない空の下でしか会ったことがなかったから、部屋の中にいると、三井くんってこんなに大きかったんだと実感した。
家に上がってもらい、とりあえずタオルを貸して。替えの服は流石にないと言えば、練習用のジャージは替えがあるというので、それに着替えてもらって濡れた服は乾燥にかけた。ご飯が終わる頃には洗濯も乾燥も済むだろう。
「ご飯、ちょっと時間かかるから好きにしてて。テレビとか、これね」
リモコンを手渡せば、綺麗なジャージに着替えた三井くんは、居心地の悪そうな顔で「ああ」と言う。テレビの電源が付けられた音を聞いて、私はキッチンに引っ込んだ。なんだってこんな、思い切ったことをしたんだろう。後悔しているかと聞かれたら「少し」と答えそうなほど、どきどきしている。
それもこれも、さっき見た三井くんの笑顔のせいなのだという言い訳はどうにも弱くて、ああ、ダメだなと思う。なんかダメだ。多分、考えないほうがいい。
「名字―」
「どうしたの?」
「お前いつもなんか見てんのある?」
テレビをサッピングしながらそう尋ねる三井くんはひどく退屈そうで、それを笑いながら頭の中の番組表を開く。この時間なら歴史系のドキュメンタリーか、ニュースを見ていることが多い。そう答えれば、分かりやすく顔を顰めるものだから、私はまた笑った。
「三井くん、テレビとか見ないの」
「おー。この時間は練習のこと多いからな」
彼の言葉に、私の笑いはすぐに引っ込み、代わりに湿っぽい息を小さく吐き出した。普段は練習。それが今、ないということはつまりそういうことなのだ。彼は今練習に出られない。その理由は怪我で、でも彼はなんでもないように、そんな話をする。私が、彼が怪我をしていると知っていることは知らないからだ。
「……そっか。じゃあ適当になんか見ててよ」
知らないふりは得意だ。気づかないふりも。
女の子って大体そうでしょ。学生の頃から面倒なことには極力関わらないように防衛本能が備わってる。だから大丈夫。なんでもない顔なら、私だってできるのだ。
「どう? 順調?」
「喉乾いた?」
「いいや。暇だからこっち見よーかと」
いつの間にか後ろに立っていた三井くんが、私の手元を覗き込む。水溶き片栗粉を入れて、いい塩梅にとろみのついた麻婆豆腐は我ながらいい出来だと思う。漂う香辛料の匂いに、三井くんのお腹は素直にぐうぐう鳴って、本人も恥ずかしそうな素振りもなく「腹減ったー」と呟いている。
「じゃあ、ご飯炊けたたからよそってもらっていい?」
「おー。それならできる」
「好きなだけ食べていいよ」
一人暮らしを始めて買った炊飯器で、3合炊いたのは多分初めてだ。出しておいたお茶碗に、三井くんは器用に私の分と自分の分をよそっていく。その量の違いが、大人と子供みたいで、また違いをしかと実感する。
「すげーな」
「え?」
「切んの。うま」
私の手元の小口ネギを見て、彼の白い歯がのぞく。学生時代、キッチンのバイトの大半は玉ねぎとキャベツを切ることだった。小口ネギもたまに。だから野菜を千切りにするのも、みじん切りにするのも得意だ。
でもそれを改まって彼に指摘されると、なんだかすごく恥ずかしいような気がして、そっけない態度になってしまう。「そうかな」じゃなくて、「ありがとう」と言えばいいだけなのに。
「三井くんの方がすごいよ」
あ。
顔を上げる。こっちを見ていた三井くんをバッチリ目が合った。
なんで。なんで、今の流れでそんなこと言っちゃったんだろう。
「何が? バスケのことかよ」
「……それもそうだし、ご飯。そんなに食べられるのも」
「ふは やっぱよそい過ぎたか」
下手くそな誤魔化しに、あえて何も言わずに笑ってくれる。恥ずかしいのが、もっと恥ずかしくなった。なんかダメだ。考えるのも、何か言うのも。ダメだ。これ以上、三井くんのことを見ているのも。
「出来たよ。お待たせ、食べようか」
「おー。うまそう」
少しずつ、少しずつ。道路に染みていく雨のように、三井くんの存在が私の生活に侵食していく。少しずつ、少しずつ。彼のことを考える時間が増えて、彼のことを見つめる時間が減ってゆく。
それは、とても恐ろしいことだった。