「そういえば名字って湘北だっけ?」

最近やけに高校のことを思い出す機会が多いなと思いながら、「そうですよ」と返事をする。聞いてきたのは隣のデスクの先輩だった。年は3つ上で、三井くんみたいなスポーツ刈りがよく似合う色黒の人だった。入社当時から教育係としてお世話になっているこの人は、私に関する大体のことを知っている。

「バスケ部だった三井って知ってる? 歳も割と近いだろ」
「——はい?」

その先輩から二言目に三井くんの名前が飛び出すとは夢にも思わず流石に驚きを声に隠しきれない。その反応を見て「あ、やっぱり知ってんの」なんて笑う先輩は呑気そのものだ。
バスケット部の三井。思いつくのは、一人しかいなかった。
湘北バスケットボール部の長い歴史の中で「三井」という選手が何人居たかなんて私が知る由もないが、こうして名前が上がるくらい有名な選手であるということを考えれば、やっぱり“あの”三井くんの話なのだろう。

「多分知ってます、けど」
「マジ? 去年あそこのでかいビルの実業団にその三井が加入してさ」
「……へえ」
「いや、上手いんだよな〜シュートがさ」

シュッシュとデスクの上でバスケットのフォームをまねる先輩のそれが、上手いのか下手なのかは知らないが、三井くんが誉められていることは分かる。面倒なことは御免なので、あくまでよく知らない顔をしているが、三井くんがあの大きなビルの実業団に入ったことだけは、私も聞いていた。本人から。ついこの間。

「でもなんか怪我したらしくて出てないんだよ、最近」
「えっ!?」
「怪我な、惜しいよな」

知っている人を誉められて嬉しいという気持ちは、一転して地に落とされる。
ただの世間話の一つとして語れられたそれは、私の心を冷やすには十分だった。

三井くんが怪我? 試合に出ていない?

「怪我って、そんなに悪いんですか」
「さあ。詳細は発表されてないけど、割と深刻そうな感じだったよ」

どきどきと、不思議なくらい心臓が大きな音を立てている。隣の先輩に聞こえてはいないだろうか。
三井くんが怪我。試合に出ていない。先輩の言ったことが頭を巡る。そんなまさか。そうは思っても否定できるはずなんかなかった。だって、私はなんにも知らないのだ。三井くんのことも、バスケットのこともなんにも。

「復帰は、できるんですか」
「それもな〜まだ若いし普通は大丈夫だけど、怪我によるし。引退することも珍しくはないぞ」

なんとも言えないな。先輩が苦い顔で笑う。私は全然笑えなかった。
だから——バスケットの話をした時に、三井くんはあんな顔をしたのだろうか。私が凄いねと言った時、今はバスケットができないことの歯痒さに、顔を歪ませたのだろうか。
そうだとしたら、あまりにも。あまりにも、悲しいじゃないか。言ってくれたら、一言でも、今大変なんだと言ってくれたら——私にできることなんて、なんにもないけど。それでも。

電車から降り、駅から出ると雨が降っていた。
朝見たはずの天気予報を記憶の片隅から引っ張り出し、そこに傘マークがないことを確認する。確認したところで、そのせいで傘も持たずに出てきてしまったのだから、全く意味はない。
普段はカバンに仕舞われていることも多い折り畳み傘はつい先日使って干したばかりで、あいにく留守番中。キオスクにはホラ買えと言わんばかりにビニール傘を売り出しているが、どうしてもそれを買う気にはなれない。そうして困って買ったビニール傘が、家に少なくとも3本はある。濡れることと買うことを天秤にかけたら、少しだけ前者に傾く。

小さく、ため息を吐く。
この空模様では同じように肩を落とす人も少なくない。皆同じように「げ」という顔をして、そうしてしばらく止みそうにない勢いの雨模様を見て傘を開いたり、カバンを頭に乗せて走り出したりする。

私も走ろう。そう決めた。いち、にのさ「おい!」
そう決めた。でも走り出す前に、誰かに腕を掴まれる。
誰か、と言ってもこの駅で私のことを「おい」と簡潔な言葉で呼び止める人間は、知る限りたった一人だ。

「なに走って帰ろうとしてんだよ」
「……傘なくて、」
「見りゃ分かるわ」

何言ってんだよ。そう言いたそうに彼が笑う。
ジャージに、スポーツバッグを持った彼はいかにも部活帰りの高校生みたいな格好をしていて、心臓の周りがざわつき始めた。
バスケットしてきたのかな。怪我治ったのかな。聞けないことばかり頭に浮かぶ。聞けないから意味がないのに。

「入れば」
「三井くん、傘持ってきたの」
「んなわけねーだろ。会社の共用だ」

黒い、いかにも男の人用のような傘を彼が開いた。
それは確かに大きくて、二人が並んで入ってもまるで窮屈さを感じさせなかった。悪いよ、と私は口で言いながら、決まったことのように歩き出す三井くんを強く突っぱねる気はない。小さく「ありがとう」と言うと、最近聞き慣れてきた彼の「おー」という返事が返ってくる。それがおかしくて、同時に少しだけ寂しくて彼には見えないように少しだけ笑った。

こうして三井くんと並んで帰ることを、もう偶然だと思わなくなっている自分がいる。
一緒に帰った回数はもう片手を超えて、この調子でいけば、3ヶ月と待たずに両手は軽く超えるだろう。私たちはいつも取り止めのない話で空白を埋め、肝心なことにはまるで見向きもしなかった。
三井くんは最初からないことのように自身の怪我について触れなかったし、私もそれを尋ねたり新聞記事を調べるような真似はしなかった。地方実業団のバスケット選手の怪我が、新聞に載るかは疑問だけど。

そうして私がバスケットの話に触れるのを躊躇うのに、三井くんはあっさりと高校時代の部活の後輩の話をしてきたりする。私がバスケットには興味も関心もないと知った上で、だ。私はそのたびに「なんで」と言ってしまいたくなる。

なんでその話をするの。
なんでその話はするのに、怪我の話はしないの、と。

「あー腹減ったな」
「今日の夕飯は?」
「そういや、今日弁当ねーんだったか」

マンションに着く直前。帰り際だった。ここ最近の私たちはよく食べ物の話をする。その時も自然にそうなった。食べ物の話は肝心なことに触れずにいられるから楽だ。好きだ嫌いだ、それだけでいつまでも話を続けられる。

三井くんの家は社宅ということもあって、週に何度かは家に栄養バランスの取れた弁当が届けられるらしい。ない日は外に行ったり、コンビニで買ったりまちまち。前に聞いた時はそう答えていた。

「お前は?」
「今日は、麻婆豆腐かな。昨日、素と豆腐買ったし」
「へー美味そ」

頭の中に冷凍用にと買った大きなサイズのひき肉のパックを思い浮かべる。あれを買ったのはたまたまだ。でも。こんな図ったようなタイミングで家に到着すると、自分が今、言い出そうとしていることがなぜかとても自然なことのように思えてくる。

ずっと傘を持ってくれていた三井くんを自然な形で見上げ、ありがとう、と言った。それは私たちにとってのバイバイやまたねとほぼ同義だ。普通ならここで別れて、三井くんは自分のマンションへ向かう。私はそれを見送る。それが今日までに繰り返されてきた、私たちの中の『普通』だった。

「傘も入れてもらっちゃったし」
「気にすんなよ、ラッキーだったと思えば」
「うん。だから、……その」
「ん?」
「三井くん、よければ麻婆豆腐、食べる?」

お茶でも飲んでいけば。そんな軽い気持ちだった。
雨はまだまだ降っていて、私の方に傘を傾けてくれていたのか、三井くんの左肩は濡れてシャツの色が変わってしまっている。スポーツ選手が体を冷やしたままではダメだろう。
それに怪我のこともあった。怪我してるのに、体に悪いコンビニ弁当を食べるのはどうなのか。言えないくせに、一丁前にそんなことを心配している自分がおかしい。

「あ。そんな深く考えなくていい、というか」
「マジでいーのかよ」
「え」
「俺、そこそこ食うけど」
「え、あ。そういうこと? それは全然。お米炊くし」
「んじゃ、お言葉に甘えて。これもラッキーってことで」

三井くんの白い歯が、目の前でキラリと光った。
私は星に心ごと盗まれたみたいな、そんな気持ちになって、笑う三井くんをぼうと見上げる。三井くんは大きな傘を畳み、雨降る道に向かってそれを開閉し滴を払った。雨粒もキラキラ光る。少なくとも私の目には、彼が光って見えた。