尾形が目を覚ますと、自分の体に掛けられた毛布に気付いた。下は硬い床ではなく、薄い敷布団に変わっている。ぐつぐつと何かが煮える音がして、部屋に広がる蒸気が、乾燥した喉を急速に湿していく。変わらず腹は痛いが、その痛みも先刻より幾分もマシになっていた。
ゆっくりと体を起こす。まず初めに確認したのは、己の愛銃の所在である。手を伸ばせば届く距離に立てかけられていることに安堵して、周りを見ると、根城にしていた山小屋に違いない。しかし、己は死んだはずではないかと思う。第七師団の連中に見つかり、撃たれたことで死んだ。そう覚悟して目を閉じたはずなのに、起きてみたら、これは一体どういうことなのか。気持ちを整理するために、深く息を吐いたと同時に、山小屋の扉が開いた。
「──良かった、目覚めたんですね」
名前だ。自ら手放したはずの女が、そこにいた。屈託のない笑みを浮かべ、何やら野菜の入った籠を抱えている。それを鍋の近くに置くと、名前は尾形の近くに膝をつき、その額に手を伸ばした。冷たい手だった。その感覚が、己の生を確かなものにする。「俺は生きているのか」
死ぬ覚悟をして、彼女に酷いことをした。それなのに、生き長らえているという事実は、あの戦争を生き抜いたことより遥かに恥ずかしいことのように、尾形には思えた。名前は、尾形の言葉に目をぱちくりさせると、小さく笑って「私が死なせるわけないじゃないですか」と言った。
「あれから大変だったんですよ」
名前#は、洗ってきたと思われる野菜を鍋に入れながら、顛末をぽつりぽつりと語り出した。尾形に突き放された後、名前はこのままでは尾形が助からないと踏み、急いで山間の集落へと向かった。旦那に暴力を振るわれているから逃げて来た。息子が怪我で死にそうだ。助けたい。新しい布と出来れば薬が欲しい。咄嗟のでまかせにしては、中々説得力があったと、名前は笑う。住民達はありったけの白布と包帯、薬に加え、ぼろぼろの服を着た名前に、綺麗な服を与え、おまけに息子に精がつくようにと食材をたんと持たせてくれたと言う。
「息子の怪我が治ったら旦那捨ててここへ来なよって言われちゃいました」
鍋の蓋を開けると、腹の虫がなるいい匂いが、狭く汚い山小屋に広がった。
「お前は、──」
「尾形さん」
尾形の言葉を遮るように名前は強い口調で名を呼んだ。
「私は貴方を置いてはいかない、死んでも裏切ったりしない」
これは、惚れた腫れたの話ではない。名前の瞳が優しく細まって、尾形の体をゆっくりと抱きしめる。体は、やっぱり冷たかった。それが尚更生きていると思わされて、やっぱり恥ずかしくなる。
「それでも私を信じられないのなら構いませんけど、私は貴方の傍を離れません、地獄へだってお供しますから、何を言っても無駄ですよ」
尾形は熱くなる目頭を抑えながら、おっかねぇなと言った。名前は笑う。尾形は初めて、人から与えられたそれを、生まれたときからずっと望んでいたのだと、初めて知った。
「立派な鮟鱇を貰ったんです、お鍋にしたので食べましょう」
鍋からよそわれたそれを、一口食べる。遠い昔に食べたものとよく似ていた。あの人は、尾形を愛してくれなかった。けれど、今目の前に居る女は、あの女とは違う。だから自分も変わらなくては。
「お口に合いました?」
「ああ」
「ああ、じゃ分かりませんよ」
「…美味い」
「尾形さんは私のこと好きですか」
「……ああ、」
「だからああじゃ分かりませんって」
生涯唯一となるであろう女を、満足させられるようにならなくてはいけない。
「今は勘弁してくれ」