病院を抜け出すのは夜と決めていた。その晩は月も見えない真っ暗な夜で、夜逃げの脱走兵になるのはうってつけの日だった。尾形は、すっかり動くようになった身体を起こし、しばらく世話になった病室を見渡す。不便はあったが不満はない。兵でいることも、嫌いではなかった。ただ、鶴見の下で生きるのは御免だし、彼と志を共にする気も毛頭なかった。この病院を抜け出し、どこかで銃を奪う。あとは、二階堂と合流し、自分を捜索しに行ったきり音信のないという谷垣を殺しに行くつもりだ。感傷に浸る時間はない。
寝台から降りたところで、病室の扉が開かれた。気配も足音もなかった。しかし、そこには確かに、暖かそうな西洋風の外套を着た女が立っていた。本当に来たのかと尾形はため息を吐き、女は、私も行きますと言った。名前だった。この病院で尾形の担当看護婦として世話をし、尚且つこの脱走計画の共犯でもある。この病院の窓は、脱走防止のために外からしか開閉が出来ない。そのため、昼間のうちに開けておくのは名前の役目だった。
この病院で目を覚ました時は、過去に出逢い、鶴見中尉を疎う自分の世話をするのが彼女だということに、数奇な運命じみたものを感じたが、以降、尾形はそれなりに彼女との談笑を楽しんでいたし、それは名前も同様だった。闇に塞がれた心に、ほんの一筋差した光が彼女であることも、別に否定しない。だからこそ、尾形はここまで躊躇っている。練った作戦に穴はない。現にここまで上手くいっているのだ。彼女と交わした作戦通りにコトを進めるならば、彼女を人質として同行させることになる。
「鳥籠育ちのお嬢様は知らないだろうが、この窓の外は地獄だ」
おおよそ、人の行くべき道ではない。尾形は言った。名前は一歩近付いた。全てが嫌味と悪意に満ちていた。
「貴方も、鳥籠がどれほど恐ろしい場所かは知らないでしょう」
この美しい娘がどうして逃げ出したいのか、尾形は不幸にも、理解することが出来た。その鳥籠の恐ろしさは知らないが、彼女の愛憎に満ちた瞳が、それを雄弁に語っている。だからこそ、この作戦を立てたのだ。嘘偽りは、あの病室の何処にもない。
「それに医療の知識はあって損はありません、お金も、貴方よりは手持ちがありますし、女もいた方が、逃走暮らしはやりやすいでしょう」
自分に共に逃走することを持ちかけた時と同じ台詞を、名前は語った。風が吹いて、窓枠がギシギシとなる。夜明けはまだ遠い。しかし急がなければ。
「私は貴方と共にいきます」
その強い瞳が、尾形の心臓をいつも捉えて離さない。
彼女は毒だ。
「…何故泣く、」
無意識に、尾形は彼女の頬を伝う涙を拭った。予想に反して、それは生暖かった。尾形は心の靄が晴れる気持ちがした。月には依然として分厚い雲がかかっていたが、目の前の道はハッキリと映っていた。
「今度泣いたら置いていく」
尾形は右手で自分の荷物を担ぎ、左手で、足元に置かれていた名前の荷物を持った。名前はもう悲しくなかった。涙も、流れたのはひと粒のみである。ごめんなさいなのか、ありがとうなのか、少し迷った後で、今はまだそれを言うべき時ではないと名前は考え直した。早くしろと急かす、彼の冷たい瞳を追いかけ、嬉嬉として地獄の途に身を落とす。始まりの夜というのは、こうも愉快なものかと、弾む思いがした。
「これを」
名前は背に隠していた細長いものを取り出して尾形に渡す。尾形の愛銃・三十年式歩兵銃だった。修理が済んで、保管されていたものを持ち出した。鶴見の権威を使え、ば彼女には造作もないことだ。「嫁入り道具です」
雪に足を取られる名前の手を、尾形は取った。そして物騒だなと笑って、歩を早めた。