廊下から足音が聞こえて、名前は体を固くした。窓の外からは鳥の鳴き声も聞こえてくる、もう夜は明けただろうか。名前はそれでも、足の間に埋めた顔をあげる気にはならなかった。足音が近付いてきて、やがて止まり、襖の開く音がした。ぎゅっと抱えた膝に力を込めたとき、ひんやりとした手が名前の足に触れ、驚きと共に、咄嗟に顔を上げた。

 何してる、と尋ねる。それはこっちの台詞だと、叫ぼうとした声は掠れて、全く音にならない。肝心な時にいつもこれだと名前はぐっと顔を顰める。尾形はそれを見て、ふっと笑った。

「…何してるって、…待ってたんです」

風呂に行くと言ったきり、戻らない誰かさんを。

 夜、アシリパもインカラマッも居なくなり、宿には自分一人だと気付いた。窓の外からは銃声が聞こえて、嫌な予感がした。怖くて怖くて堪らなかったのだと、名前は、本当は泣きたい気持ちだった。けれど、どうしてか、尾形に泣き顔を晒すのは憚られる。益々顔を顰めた彼女の眉間に、尾形の無骨な指が触れる。しわを伸ばすように、それをなぞった。

「ひでぇ面だ」
「誰のせいで寝不足だと思ってるんですか」

名前は汚い顔で笑顔を作る。尾形が外套を羽織らず、制服だけでいるのはとても久々のことで、名前は変な感じだと思った。そしてその身体のどこにも傷がないことを確認して、尾形の顔を両手でぺちぺちと触る。無事ですね、良かったと、笑った彼女に、尾形は口元を緩めた。自分を心の底から心配する人間など、今まで一人だって居ただろうか。そう考えたとき、目の前の彼女に対して抱く感情は、尾形の心をじわじわと蝕んでいく。尾形はそれを決して許容すべきではないと考えていた。自分は造反した脱走兵、明るい未来などどこに転がっているというのか。

「…杉元と谷垣が怪我した」

彼女の真白の心に触れたとき、尾形はあの日、病院で彼女の手を握り返したことを後悔する。
いつも、いつだって。

「じゃあ行かないといけませんね」

尾形は、鶴見中尉達は彼女がとっくにこの脱走劇の共犯者であることに気付いているだろうと思った。それでも残せる退路は、全て残しておくのが戦場の鉄則だ。「待て」立ち上がりかけた彼女の細い腕を掴む。少し引っ張ると、名前は簡単に腰を落とした。

「もう少し」

彼女の白い肌に触れたとき、尾形はあの日、病院で彼女の涙を拭ったことを後悔する。いつも、いつだって。

「はいはい」

あの日がなければ、今はないのだと思えば、ほんの少しだけ、細腕を掴む手に力が入った。名前は何も言わなかった。