「お久しぶりです谷垣一等卒」
小熊の柵の外から名前が声をかけると、谷垣は殊更驚いた。先程、山の中でアイヌの人達に疑われ、銃を向けられている谷垣と、尾形・もう自分は、この男と地獄の果てまで連れ添うと決めたのに、その覚悟がいつになっても伝わらないことが、名前は、虚しかった。の二人が出会ったのは偶然だった。尾形は、渦中の現場に飛び出していく前に名前を手で制し、何があっても出てくるなと言ったので、名前は言葉通りにした。それから谷垣が、銃を打つな話せば分かると説得し、このコタンに連行される間も、名前はひたすら顔を上げず、尾形の外套を被らされていたので、谷垣が気づかなかったのも無理はない。むしろ、気付かれないようにしていたのだ。そう迄して、自分の存在を隠した理由を、名前は薄らと理解していたが、それはやはり不快なものだ。だから、谷垣が鶴見中尉の追っ手でないことが分かったとはいえ、軽い意趣返しの気持ちで、名前は谷垣に声を掛けたのだ。
「何故貴女がここに」
「…やあっぱり聞いていらっしゃらないんですね」
谷垣が本部から連絡絶ったのと、名前と尾形が造反したのは程近い。これで尾形が、万が一に備えて名前を隠していたことは、やはり正解だったと証明されたわけだが、もはや彼女にはどうでも良いことだ。
「逃避行中なんです」
名前は、何やら楽しそうにその言葉を口にしたが、谷垣には何が楽しいのかさっぱりと理解出来なかった。鶴見中尉が、姪である名前を自分の娘のように可愛がっていることは、第七師団では有名な話であったし、時折、旭川の本隊に顔を見せる彼女は綺麗で華があり、兵の誰もが憧れる存在だったと、谷垣は記憶している。何の不自由もなかったであろう暮らしから、何故このような地獄の途へと身を堕としているのか、それを尋ねて、真相を詳らかにするには、如何せん目の前の隔たりが邪魔である。「尾形上等兵とですか」
谷垣の言葉に、名前は確かに頷いた。それは何故か。考えても分からないことだけは、谷垣には分かっていた。おまけに、自分はもう第七師団にも鶴見中尉にも無縁の身だ。つまり、この可憐で儚い娘が、どのような世へ行き着こうとも、自分には今後一切無関係なことである。そうでしたか、と形ばかりの返事をすれば、名前はくすりと微笑んだ。
「止めて下さらないのですね」
名前のそれはまるで、自分が行き着く先が分かっているかのような口調だ。幸福など、有り得ない。「…貴女が、不幸には見えません」
思ったことをそのまま口にすると、名前は、たいそう嬉しそうに笑い、また遠くで己を見張る尾形の元へと戻って行った。谷垣は、尾形からの射抜くような視線を柵越しに感じながら、尾形も名前も人の子であったのだと思い出した。