大きな鹿の腹の中で、尾形は名前を自分の前に抱え込んだ。大の大人二人が入るには手狭もいいところだが、撃った三頭の割り振りを考えれば、当然のことであったので、名前は、大人しく尾形の腕の中に抱かれていた。中は生暖かく血腥い。気色の悪い空間に吐き気を催したが、名前は喉を軽く手で締めて、どうにかこうにか切り抜ける。

 白石を奪還する為に、二十七聯隊の支部まで行き、奪還して逃亡。鈴川は失ったが、杉元が食らった二発のみと、一行の被害は最小限。気球などという異国の乗り物に乗ったのも、勿論初めてであった。

「…鯉登少尉には気づかれていないな」

背後から尾形の声がして、名前は気づかれていないだろうと答えた。ずっと尾形の外套を被っていたし、もし気付いていたのなら、あの薩摩隼人が黙って見過ごす筈もない。キエエと喧しく叫ばれただろう。

「久しぶりに会いました」

綺麗に焼けた肌、端正な顔立ち。なあんにも変わっていなかったと、名前が笑う。尾形はそれを不愉快そうに見下ろし、抱く腕の力を弱めた。

「私、本当は、こいっちゃんと結婚するかもしれなかったのですよ」

冗談のように告げられた過去は、尾形を多少なりとも動揺させる。すぐにたち消えた話だと名前は言うが、そうでなかったら、今、こんなとこにいないだろうと言おうとし、尾形は、口を噤んだ。

「──あの男ならば将来安泰だっただろうな」

尾形の呟きに、名前は、瞼を下ろした。
「尾形さんってそういうことばかり言う」
逃げた方がいいとか、帰った方がいいとか、一人で幸せを見つけろとか。名前にはなんの意味も無いものばかりなのに。もう自分は、この男と地獄の果てまで連れ添うと決めたのに、その覚悟がいつになっても伝わらないことが、名前は、虚しかった。

 例え、ここで鹿の腹から這い出たところを熊に食われたとして、それはそれで愉快な人生の終わりだったのではないだろうかと思える。この男と逃げてきたことに、後悔はなかった。名前にとってそれは、あの人と共にあっては、決して得られないものだから。名前の呼び掛けに、尾形は応じない。もう寝てしまったかもしれないと思って、名前は小さく泣いた。

「…もう少しでいいから、強く抱いてください」

腹の中にだけ響くような、か細い声が消えた頃、腹に回った手に力が込められた。狸寝入りも彼の常だと、名前は涙を拭って眠ることにした。