本庁14階、喫煙室。世間様じゃ、もっぱら肩身の狭くなった喫煙者も、警察という狭い世界に絞れば、過半数を超える。警察庁警備部機動隊が位置するこのフロア。廊下の端、追いやられた喫煙室で相棒と一服しながら疲れを癒すのが警察官になってからの楽しみだったというのに、爆弾処理班一と謳われたヘビースモーカーが、パタリと煙草を辞めちまったんだから、父親ってのはすげぇとしか言い様がない。
「松田さん、今日一杯どうですか!」
「パス」
「やっぱり~!」
「萩原誘え、暇だから」
人のことを勝手に売るのは前からだとして、すっかり付き合いも悪くなり、何故か奴を慕っていた後輩は意気消沈。酔って、『息子さんは俺より可愛いんですかね』と当たり前のことを、当然の愚痴のように聞かされる俺の身にもなってほしい。そうだな、以外に掛ける言葉がない。
「お前もたまには早く帰れって」
「……お疲れさんです」
「おつかれ」
ヒラリ、手を挙げて廊下を去っていく背中。こちらを振り返り、ガラス越しに恨めしそうな目をしているのは、可哀想な後輩である。
「萩原さん、……」
「……分かったよ」
付き合うよ。付き合うけど、多分息子はお前より可愛いよ。俺もまだ会ってない。
「あ」「?」
スーツの内ポケットからスマホを取りだし、強制トークに送信。今週土曜、予定空けろ、っと。はい完璧。
穏やかな昼下がり。洗濯物を干していると、ピンポーンとチャイムが鳴った。宅配便だろうか。窓から中を覗くと、陣平さんは息子のオムツを替えるのに悪戦苦闘中の模様。ああ見えて、世に言うイクメンである。もちろんイケメンでもある。
「はーい」
干しかけの洗濯物をカゴに突っ込み、階段を降りる、もう一度ピンポーンと音が鳴ったところで、ドアに到達。宅配便、最近はネットショッピングも控えているけれど何だろう。もしかしたら田舎に隠居した両親から、また何か送られてきたのか。子供が生まれてから、父の購買欲が留まることを知らない。初孫が可愛いというのは、紛れもない真実らしい。
「あ、名前ちゃん」
「……ん?」
イケメンがいち、に、さん人。夢か?
「え、っと……萩原さん、と、」
「ご無沙汰してます」
突然すみませんと、ノリノリの萩原さんとは対照的に申し訳なさそうに笑うのは、スコッチではなく、諸伏さん。そして大きな荷物を抱えて後ろで、人当たりの良さそうな顔をしているのが伊達さんである。忘れるものかファンだ。
「じんペーちゃんいる?」
「いますけど、あ、どうぞ。すみません、私何も聞いてなくて」
「あ、いいのいいの、今日は「おい」
萩原さんの声を遮り、私の後ろから登場したのは世人目のイケメン兼我が家のイクメンである。
「帰れ」
「そう、つれないこと言うなって」
なるほど、陣平さんに断りなしの押しかけ訪問だったらしい。旦那のこの上もなく嫌そうな顔が全てを語っている。ちょっと面白い。そんな嫌な顔しなくても。
「まあまあ、どうせ用事もないし」
「お邪魔します」
「すいません、急に」
依然として困り顔の諸伏さんと、豪快に笑いっぱなしな伊達さんに、遠慮なくと中へ通す。もてなせるものなど何もないが、まあ目的は我が家の新しい家族だろうし、問題ないだろうと二階へ。降谷はあとでちょっと顔出すと、萩原さんが楽しそうなので、ウチのイケメン密度がとんでもないことになりそうで困った。息を吸う場所がない。困った。
「会いたかったぜ、ジュニア~」
「うわあ、小せぇ」
「……これが松田の子供か」
まるで何か珍しいものでも見るように、ただの赤ん坊を大の大人が三人で覗き込むのはちょっと滑稽な絵面である。お茶入れました、の声も届いてないと。まあウチの子は可愛いから仕方ない。将来は父親似のイケメンになること請け負いだ。
「ほら満足しただろ、帰れ」
「可愛いな」
「じんペーちゃん、この子俺に頂戴」
「帰れ」
見ているだけで楽しい。幸せだ。
私が幸せを噛み締めているにも関わらず、陣平さんは大きくため息。ああ、幸せが逃げた。勿体無い。
「…ったく」
週末の休みを確保するために平日お仕事をすごく頑張っていたのは知っているが、たまには賑やかな休日も素敵じゃないか。
「連絡なしに来やがって」
「あの子も楽しそうだし、いいじゃない」
そもそも連絡したら家に入れないだろうことは萩原さんじゃなくてもわかる。賢明な判断だったとしか言えない。
「アンタも楽しそうだな」
「女はいくつになってもイケメンが好きなんです」
「あ?」
やだ、そんな怖い顔しないで。冗談。
ピンポーン
「お、ゼロか」
人類至上のイケメン登場と。これは心の準備が要るなと思った途端、息子が泣き出してしまう。さっきまで、あんなに機嫌よかったのにどうしたの。俺行きますよ、と伊達さんが言ってくれたのでお任せすることにして、私は泣き止ませに掛かる。オムツはさっき陣平さんが変えたし、その前にはおっぱいも飲んだばかりだ。さっきまで楽しそうにしていたから急に人見知りって訳でもないだろうし。
「赤ちゃんって難しいな……」
諸伏さんの言葉に一同頷くしかない。言語が通じないというのは難しいことだ。親といえど、全てがわかる訳じゃあない。陣平さんが高い高いしてもダメ。おやつをチラつかせても食べたそうな雰囲気でもない。Oh……何だって言うんだ息子よ。
「降谷来たぞ、ってジュニアはご機嫌斜めか」
「お邪魔します」
泣き止まない息子を前にしても、うわあイケメンすぎて眩しいなと思うのだから、女とは器用な生き物だ。
「はじめまして」
ギャンギャン泣いている息子に微笑みかける降谷零。目が潰れそうな眩しさ。
「え、」
「お?」
「はあ?」
「さすがだなぁ」
息子氏、泣き止んだ。ほっぺにカピカピの涙くっつけたまま、きゃっきゃと降谷さんに手を伸ばしている。「これがイケメンの力……」イケメンは年齢をも超越すると。変なところばかり私に似なくていいのに。男のくせにお前もイケメンが好きか。よくわかってる。当たり前に陣平さんは不機嫌だった。子供だ。
「おおよそ変な輩に絡まれて驚いていたんだろう」
なあ?と、降谷さんが私の腕から息子を受け取り、その腕に抱く。こんな屈託のないこの人の笑顔を見たのは、初めてかもしれない。
「変な輩ァ?」
「言ってくれるじゃん、公安エース様よ」
よだれまみれの短い指を、降谷さんに伸ばす。その小さな手を、降谷さんの手がふんわりと包んで、ああ、やっぱりこの子は小さくて、この人は大きいなと、思わざるを得ない。
「ゼロばっかりに懐いて妬けるな」
「ほんと。今日行こうって言い出したの俺なのに」
「いいから早く帰れって」
降谷さんを中心に、楽しそうに笑い合うみなさんを見て、陣平さんがまたため息を吐く。幸せがまた逃げる。逃げた幸せは、この部屋の中の誰かの元へ行くだろうかそれならいいのに。
「ニヤニヤしてどうした」
「いやあ幸せそうだなあって」
誰も欠けずに、この場に陣平さんの友達がみんな生きて笑っていることが、もちろん幸せで、それはきっと旦那様も一緒のはずだ。この人が、降谷さんが、大切な友人を、掛け替えのない時間を失わなくて良かった。今、こうやって、みんなが幸せで良かった。私が言えば、陣平さんは、私の前でも隠し事をする気は無いらしく、特に否定もしなかった。優しく、とても優しく笑っている。
「アンタのおかげだ」
陣平さんがさらりと私の頭を撫で、息子奪還に輪の中に戻ってゆく。残された私は、ため息。幸せのおすそ分け。どんなに頑張ったところで、この世界で一番幸せなのは私なのだ。『…降参、です』あの時、私はもう負けたのだ。勝ち目などない。