※「Flyday」軸

 油断していた。その一言に尽きる。蘭ちゃんたちに誘われて、ちょっとお茶でもとお店を出た。だって美味しいサンドイッチが食べられるんですよ、と言われてしまったらひょこひょこ着いて行ってしまう。胃袋と足は正直なのだ。ちょうどお腹も空いてた。どんなお店かなあ、とルンルン着いて行ったらすぐだった。ここです!と胸を張って紹介して頂かなくても知っている。近所では有名だ。いろんな意味で。

「いや、私、ここは、」
「いつもそうやって言うじゃないですか~」
「いやだって、」

 いいから、早くと手を引かれる。カランカランとベルが鳴って、せめて例のあの人がいなければいいなと願ったが、そんな淡い期待は、第一声で打ち砕かれた。相変わらず良い声してるなあと他人事のように思う。ポアロ と書かれた紺色のエプロンはお洒落とは言えないが、この世紀のイケメンが着ればなんでもそれっぽく見えるのだ。蘭ちゃんと園子ちゃんの奥に、私の姿を見かけた安室透その人は、珍しいという感情やら驚きの表情を噯にも出さない。この人はやっぱりすごい人だなあ。おっかないや。

「いらっしゃいませ」

 お好きなお席へと促されたが、視線が痛い。なんで来たんだみたいな顔しないで欲しい。女子高生の圧力に負けたのだ。今までのらりくらりと交わしてきただけ褒めても良いくらいだと思うけど、いや、全くそんな感じじゃないですね。はい、早く帰りたいよ。油断してた。米花町でサンドイッチといえば、ポアロのハムサンド。思いついて回避できた。

「ご注文は何になさいますか?」
「……えっと、コーヒーを、「ハムサンド3つ!」…で、お願いします」

 コーヒーだけ飲んで先帰る作戦は無事に絶たれたので、とりあえず彼に迷惑をかけないように生きようと思う。切実に。

 運ばれてきたハムサンドは確かに神の味がした。美味しい。これは美味い。常連さんたちがこぞって褒め称えるのも無理のない話である。素晴らしいな。園子ちゃんに「美味しいでしょ!」と言われ、高速で頷いた。美味しいです。

名前さんのお店のご飯も美味しいけど、安室さんのハムサンドもやめられないのよねぇ」
「おや、#name1#さんとはもしかして裏のお店の?」

 知ってるくせに。何回かきたことあるくせに。

 ええ、まあ、と引きつった顔で返せば、ああなるほどと、わざとらしく手を打った。何もかもわざとらしく見えてしまう補正がかかっている。やっぱり来なきゃよかった。

「友人から美味しいってよく聞くんです、僕も今度お邪魔しても?」
「ええー安室さん一緒に行こうよ! 名前さんの料理美味しいんだから!」

 にっこりスマイルを返す。友人だって。松田さんのことか。ふふと笑ってしまった。お待ちしてます、と言ったらちょっと怖い顔をされた。解せない。


 油断していた。その一言に尽きる。バーボンとして、汚れ仕事をした。血のついた服はその場で脱ぎ捨て、新しい服に着替える。後始末を終え、帰路に着く途中、丁度ターゲットの仲間が帰ってきた。こちらの仲間に見張らせていたので大丈夫だろうと、慢心が生んだ結果だ。連絡を確認するのも怠った。仲間の死を目の当たりにし、逆上した相手がこちらに向かってきた。油断は、いつも危険を生む。腕をナイフが掠めた。当身で何とか場は切り抜けたが、腕、肘から5センチ上がパックリと切れて血が滲む。おまけに外は雨だった。天気予報は、確か一日晴れだったはずなのに。つくづくついていないな。組織に結果と後を頼んで、外へ出る。ここからなら米花町のマンションが近いだろう。静かな夜を、雨が濡らしている。

 タクシーに乗るわけにも行かず、雨の中、傘もささずに歩き出す。車を持って帰らせたのは失敗だった。この時間、まだ夜も明けきらない、道に誰もいないことだけが救いだ。冷たい。切り傷にじくじくと沁みて、馬鹿馬鹿しい気持ちになる。雨は人の気持ちを陰鬱にするというが、本当だな。そんなことを、考えているのも馬鹿馬鹿しいのだけど。

「……降谷さん?」

 振り返る。脇道から出てきたのは、彼女だ。どうしてこんな時間に。見られてはいけない。そんな一抹の焦りをかき消すように、彼女は、俺の腕の傷に目を向けると、顔を顰め、しかし騒ぎ立てはしなかった。俺の隣に並ぶと、傘をさしかける。

「私の家、すぐそこですから」

 何事も、なかったように、歩き始める。彼女がピタリと俺の体に身を寄せたおかげで、傷跡は見えない。冷たい体に反して、彼女の体、燃えているのかと思うほど熱い。彼女は、何を、どこまで知っているのか。重く閉ざしてしまった口は、簡単な質問をすることすら躊躇する。

「イケメンが雨の中を歩いているので、映画のワンシーンかと思いました。降谷さんだって気づいて良かったです」

 彼女の声の上澄みが、わずかに振動する。口角を上げて、微笑んだふりをしたって、気持ちを隠し通せるほどではない。ああ、俺は、彼女を怖がらせたのか。そう気付いてしまったら、途端に自分が人間ではない何かのような気がした。

 ちょっと待っていてください。彼女は俺を店に通すと、椅子を引き、座るように促した。トタトタと駆け足で階段を上って行く。シンと静まり返った店内。窓の向こうで、今も雨が降り続いている

「お待たせしました」

 彼女の声で、現実に引き戻される。手には救急箱。大した傷でもない。もう血は止まっている。

「自分でやりますよ」

 彼女の手から、それを受け取り、消毒を済ませる。いつからアルコール消毒の痛みに慣れきっただろう。思い出せないほど昔。生まれた頃から、なんて、そんなわけもないのに。顔を上げると、彼女が心配そうに、俺の傷を見守っていた。「痛いですか」彼女が尋ねる。咄嗟に大丈夫だと、答えそうになり、それではまた彼女を怯えさせるかと口を噤む。

「そうですね少し、……でもかすり傷なので」

 血が出ているのに、痛みを感じない人間など、いてはいけない。少なくとも、人の目のつくところには。

「こんな時でも、私に気を遣うんですね」

 彼女が、悲しそうに笑う。見透かされたようで心地が悪い。何か取り繕おうとした時に、丁度ドアが開いた。

「おい、こんな時間に何して、……って、」

 松田だ。寝間着のまま顔を出した男は、彼女の向こうに俺の姿を認めると、明らかに面倒そうな顔をした。わかりやすい男だ。そういうところが気に入っているのだが。

「邪魔してる」
「ああ、……アンタは怪我してねえだろうな」

 彼女の腕を掴んだ松田に、私は平気と彼女が笑いかける。俺の傷を隠すために、彼女の服にも血がついていた。

「それは俺の血だ、お前が心配するようなことはない」

 松田が、また顔を顰め、はあ、とでかいため息をついた。名前さんが、松田に洋服を貸してくれと頼めば、ああと頷き、階上に戻って行く。再び二人残され、シャワーを浴びるか訊かれたが、長居するのも悪いからと、ドライヤーだけ借りることにした。

「豚汁、ありますよ。温めますから飲んでください」
「いや、本当にお気遣いなく」

 俺の言葉を無視して、彼女が厨房に立つ。鍋を火にかける。少しだけ、部屋の温度が上がった気がした。「すみません」と声に出す。たまたまとは言え、朝から迷惑をかけた。

「降谷さん」
「はい」
「あなただけ不幸になろうとしないでください」

 カウンターの向こう、彼女が泣いてしまいそうな顔をしていた。え、と声は漏れただろうか。

「陣平さんが悲しむんです」

 泣いてしまいそうな顔で、彼女は優しく微笑んでいた。

「ドライヤー、取ってきますね」

 彼女と入れ違いで、松田が服を片手に戻ってきた。彼女が残していった味噌汁。手に取れば暖かく、外との気温差で頭が痛む。口に含めば優しく、彼女が見せる表情全て、意味がわかるような気になった。

「美味ぇだろ」

 得意げに、笑った松田に、ああ、と返事をする。うまいな、確かに。本当に。


 カランカランとベルが鳴る。いらっしゃいませ、と今日も素敵な声が出迎えてくれる。お一人ですかと訊かれたので、そうだと答え、カウンターのイスを引く。監視していないと、すぐに危ないことをする人だってことはよくわかった。迷惑承知で、健康チェックにきてやろう。それを話したら、陣平さんはおーと興味ないふりをしていたが、内心、降谷さんのことをとても心配しているのはわかっている。

「ご注文は」
「ハムサンドで」

 目の前で、ハムサンドを作り始める彼に、いつか、本当に、待っていますからと声をかける。あなたが、降谷零として、堂々と店のドアを鳴らしてくれる日が、1日でも早く。

「ええ、僕も今から楽しみです」

 降谷零という男は、よく嘘をつく。誰も傷つけない彼の生き方を貫くためには、嘘が、必要なのだ。でも、自分の言葉を違えるような男でもない。ちゃあんと、信じているよ。

百年経ったらまたおいで