※「Flyday」軸

 師も走り回るほど忙しい季節とは、昔の人もよく言ったものである。12月になると忙しくなるのは、一般企業に限った話ではなく、一年の恨みを清算するように犯罪が増えるのもまた事実。11月に事件が立て続いたこともあり、忙しい時期が続いていた。若干松田に過保護な気配のある彼女が、それを心の底から心配していたのは知っていたし、理解しているつもりだった。しかし、分かっていても言葉にするのを得意とする彼ではない。ああ、とかおう、とか疲れもあっていつも以上に適当な返事をした。気づいていた。だからと言って、松田は取り繕うような男でもなかった。

「ねえ、聞いてる?」

 彼女の強い言葉に、松田は5分ぶりに彼女の方を見た。ああ、とは言ったが聞いてなどいない。

「じゃあ私なんて言った?」

 そんな小学校の先生のような質問をされても、答えられるはずなどない。ぐっと答えに詰まった様子を、彼女は見逃さなかった。ほうら聞いてないじゃん。彼女が、眉を下げ、口を尖らせる。彼女が、自分の心配をしていることなど百も承知だ。自分がかなり疲れていることもわかってる。

「疲れてるなら、無理して来なくてもいいのに」

 わかっているのに、この場をうまく収められる、そんな余裕も今はない。

「別に無理してねぇだろ」
「無理してるじゃん、そんな疲れてた顔して、」
「無理してるかどうかは、アンタが決めることじゃない」

 言った瞬間、言わなければよかったと思った。でも、口から出た言葉が取り消されることなどない。ああ、余計に面倒なことをした。そう思いながら、彼女が、そうだねと、目を伏せる、その姿がやけに寂しそうに映った。

「とりあえず今日は帰って」

 松田の前にあったトレイを下げ、彼女はそれを流しに置くと、家へとつながるドアを開けて、出て行ってしまう。バタン。響く音の虚しいこと。馬鹿馬鹿しいと思うのに、今すぐにその扉を開けて、悪かったと言う気にもなれない。胸ポケットを探る。あと3本、カサカサと音を立てるタバコ。席を立ち、店を出て、ライターで火を付けた。タバコを加えると同時に、開く扉。名前が立っている。

「お気をつけて」

 ご丁寧に、差し出されたのは自分のカバンと上着。「おい、」それを受け取ると、扉はそのまま閉められて、ガチャンと鍵の閉まる音。そしてすぐに店の明かりは消えてしまった。舌打ちしたところで、ぶつける相手も今はいない。

「余計疲れることしてどうすんだよ……」

 馬鹿か俺はと呟くが、それを否定する人も肯定する人もいなかった。

 嫌な天気だった。重苦しい雲。ここ一週間ほど雨続きで気持ちも滅入る。松田は大きくため息をつきながら、喫煙室で、煙草に火を付けようとライターを取り出した。カッチカチと音がするばかりで一向に火はつかない。舌打ちをしたと同時に、煙草のすぐ隣、はいどーぞと火が差し出された。

「なになに、機嫌悪いじゃん」
「……ほっとけ」

 遠慮なく火を貰い、苦々しい煙を肺いっぱいに吸い込む。

「さては、名前ちゃんと喧嘩でもした?」

 萩原研二は、プライベートでも勘の鋭い嫌な男である。否定しない松田に、煙草吸いすぎと萩原が笑う。自覚はあった。煙草いい加減止めたらどうですかと、彼女がしつこく言うものだから、ここ最近少なめにしていたつもりだったのに。彼女と喧嘩をしてから三週間あまり、以前の倍は吸っている。おかげで肺も真っ黒だ。

「珍しいじゃん、松田が喧嘩するなんて」
「はあ?」
「お前、そういうのに労力使うの嫌がるタイプ」

 喧嘩するくらいなら別れるじゃん。萩原の言うことは若干オーバーだが、あながち間違いではない。歴代の彼女たちを見れば一目瞭然。すぐ喧嘩に持ち込むような面倒な女はそもそも好きにならないし、そうでなくとも、喧嘩になると途端に面倒になって、気持ちが冷める。別れを切り出すのは、決まって松田の方だった。

「どーせ、陣平ちゃんがわがまま言って、名前ちゃん怒らせたんでしょ?」
「お前は何が言いてぇんだよ」
「さっさと謝んねーと、愛想尽かされるかもなあ」

 名前ちゃん、あれで案外モテるし。萩原が松田を揶揄うように笑い、煙草を消した。

「……んなこと分かってんだよ」

 萩原の楽しそうな顔が心底腹立たしい。そして彼の言うことが全て的を得ていることも腹立たしい。さほど吸っていないのに、随分と短くなっていた自分の煙草。女に許しをもらうために頭を悩ますことになろうとは。松田はまた小さく舌打ちを零した。


 一週間、雨が続いている。キッチンに響くラジオが、明日は久しぶりの晴れ模様だと言っているが、窓の外の様子を見るにあまり信用はできない。どんよりと重たい気持ちが、肩にのしかかっているようだ。

「最近、松田刑事見てないけど喧嘩でもしたの?」

 シャーシャーと水が流れる音の中、名探偵が誇張した子供口調で訊ねる。わざとらしくってありゃしないが、質問内容は、今、いちばん考えたくない話題だ。子供相手に、と思うかもしれないが、相手は見た目は子供なだけの天才高校生である。子供扱いするだけ損だ。

「……図星なんだぁ」

 僕でよかったら話聞こうか、なんておおよそ小学校一年生が言う言葉ではない。高2くらいになって、周りの顔色を伺うことと同タイミングで習得するやつである。

「別にたいした理由じゃないんだけどね」

 謝るきっかけが掴めなくて。素直に、そう言った。言葉の通り。なまじ歳をとると、素直になることは、困難を超えて不可能に近い。話があるとメールして、言い方が良くなかった、とたった一言いえばきっと収まる話。そんなこと、無駄に積み重ねた人生経験で嫌でもわかる。ただ心配だっただけで、あんなぶっきらぼうな言い方をするべきじゃあなかった。陣平さんだって疲れていたことは分かっていたのに、もう少し余裕を持って接するべきだったのは、私の方だ。大人気ないこと、この上ない。

「お互いごめんなさいしたら、解決するんじゃないの?」
「……名探偵もまだまだ若いな」

 大人の複雑な心の機微は、いくら七色の脳細胞を持っているとは言え、分からないらしい。そんなこと言ったって仕方ないけど。
 ちょうどよく、カランカランとベルが鳴り、蘭ちゃんが顔を出す。コナンくん帰るよ、と声をかけられ、名探偵はランドセルを背負い直した。蘭ちゃんからオムライスのお代と感謝の言葉を頂戴し、じゃあねとふたりに手を振る。

「きっと松田刑事も、名前さんと同じ気持ちだと思うよ」

 名探偵が最後に言い残し、蘭ちゃんが何のこと?と訊ねる。なんでもない!とニンマリ笑った顔は、私のよく知る小学校一年生のものだった。

 最後のお客さんを見送り、時計を確認して、ドアを開けた。open を close に変えようと思ったら、ドアの向こうに陣平さんが立っているものだから、驚いてワッと声が出た。3週間ぶりに見た彼氏様である。

 よお、と言われたので、うん、と返す。会話が下手くそ。適当な恋愛しかしたことがないので、仲直りの仕方を知らない。残念な大人とは私のことだ。でもそれは、多分、この人も同じ。きまり悪そうに頭をかく。前にも進まないが、逃げる気もない。考えてから来てほしかったと思ったが、ドアを開けたのは私の方だ。
「とりあえず、中入った、「悪かった」

 陣平さんは、悪かった、ともう一度繰り返す。これ、と渡されたのは今話題の、コンビニのチーズタルト。「え、…と、…私も、ごめんなさい」素直になる、ってどうしてこうも難しい。ろくに目も合わせられない。ぎゅっとコンビニの袋を握る。びゅうと二人の間に冷たい風が吹いた。「ん」陣平さんが頷き、私の代わりにドアに掛けられた open を close に返すと、私の肩を押して、店の中に戻る。カランカランとベルが鳴った。

「疲れてた、だからって悪ぃ」
「いや、私の方こそあんな態度」

 俺が悪い。そう言って、彼は私を抱き寄せ、肩に額を乗せた。

「わがままになんのかもしんねーけど、無理してでも、俺はアンタに会いたいんだよ」

 くぐもった声。分かってるつもり。あくまで、つもり。

「3週間とか、まじありえねぇ」
「ごめんね」
「アンタのせいじゃない」

 うんと言いながら、笑っている私に気付いたのか、彼が顔を上げる。

「嫌われちゃったかと思った」

 そんな私の台詞に、笑うのは彼の番だった。笑われることも分かってたけど、本当に不安だったんだ。もうアンタのことどうでもいい、ってそれがいちばん怖くって。

「たまに本当に頭悪いよな」
「失礼」

 ぽんと頭を撫でられる。好きだなんて、その場限りの言葉の代わりに、優しい感覚を残して。

「今日泊まってく」
「明日仕事は?」
「非番」

 じゃあいいよと、私が言えば、へいへいと彼が苦笑い。泊まってゆくというなら、エプロンのポケットに入りっぱなしになっている合鍵は、明日の朝、渡すことにしよう。早めのクリスマスプレゼントってことで。

きみは何座で一等星