長い長い人生の、たった一つ。たくさん起こる出来事のたった一つ。でも、それは何にも代え難く、私と彼の人生を大きく変えてしまう。キッチンに、お守りのように置かれているレモンの山。小袋抱えて帰ってきた彼を見たときには、可笑しくて笑ってしまった。無理すんなよ、の一言と共に供えられたレモン。常連さんは、いいわねえと、それを見るたびに笑うもんだから照れ臭い。
あの、松田陣平がタバコを辞めたというのは、警視庁内と米花町自治体内で小さな事件になった。彼は大げさだと言うが、おかしな話ではない。思い出してほしい、彼は本来ならば死の直前までタバコを吸うヘビースモーカーである。タバコなしでは生きていけない、と彼は言ったことはないが、きっとそうなんだろうと思っていたし、事実、彼にはタバコを咥えた様がよく似合っていたし。健康に気を遣って、やめればと散々言ってきた私も、実はこっそり陣平さんがタバコを吸っているところは格好良くて好きだったなんて、誰にも言えない秘密の話。
さて、まあそんな大恋愛の果てに結婚した妻よりもニコチンを愛していた男が、いよいよニコチンに勝る私への愛を証明した。正確に言うと、私たち、への愛を。
「お店、いつまで開けるんだい」
「今月いっぱいですかね」
「もうだいぶ大きくなったもんねぇ」
「おかげさまで」
まん丸、お月様でも抱え込んだように大きくなった私のお腹が、答え。
兆候は、思い返せばいくつかあった。
でも三度の飯より三度の飯を愛する私が食欲減退を感じ、味の好みが変わったり、むくむことが多くなったり。でも、たまに気分が悪くなるのも、月のものが遅れるのも、頭がいたいのも、ただの体調不良だと思ったし、年も取ればガタもくるかと、軽い気持ちでしか考えていなかった。だから、毎日忙しい彼に相談するほどのことでも、と夕食は楽しい話で埋まった。お店に来てくれたお客さんの話、新一くんがまた事件に首を突っ込んで蘭ちゃんとのデートをおじゃんにした話、佐藤刑事と高木刑事はいよいよ結婚間近だとか。夕食を彩るのは、美味しい料理と、二人の笑顔であって欲しかったから。
「おめでとうございます、ご懐妊です」
「……は、」
運命というのは、突然降りかかる。体調不良続いてるなら病院行ったほうがいいよとユメに言われたこともあり、近所の病院に行った。軽い診察の末に、医者が下した診断は随分とあっさりしたもので、懐妊というふた文字が私の頭の中を踊る。そういうことだから、産婦人科行ってね、と馴染みの先生に送り出され、整理のつかないままに産婦人科へ行き、正式に検査をして、もう一度同じセリフをプレゼントされた。ウソみたいな話だ。
子供ができた。というのは、当然のことながら目出度い話だ。でも、あまりに大きな責任でもある。子供の話、顔を突き合わせてしたことはなかったな。結婚してから、彼と過ごす毎日が楽しくて、子供とか、いやそりゃあもちろん嬉しいけど、でもさ。突然。夜のことを思い出しても、避妊、いつからしてなかったんだろう、あの男。
「陣平さん、なんて言うかなあ」
彼が今日早く帰ってくると言っていたかどうか。衝撃で、朝のやり取りなんてすっかり忘れてしまったよ。
あの松田陣平の子供を妊娠したと言うのは、字に起こすとなかなかインパクトが大きい。名探偵コナンの読者だった頃の自分を思い出したら、とんでもないことに思えてきた。だって、あの松田さんだぞ。結婚した時も現実味がない話だなと思ったというのに、子供ができて本格的に二人で家族を作ってゆくと思ったら、これはもう本当に自分の人生なのかを疑うレベルである。やばすぎる。
「今日変だぞ……」
「いや、やばいなあと思って」
「は?」
陣平さんがポカンとしてる。そりゃあそうだ。いくら頭がキレると言ったって、こんな小さな兆候で妊娠見抜かれたら怖すぎる。
「じゃあ良いニュースと悪いニュースどっちから聞きたい?」
「悪い方」
「常連だった近所のおじさん、転勤で引っ越しちゃうらしい」
「へえ、そりゃ残念だ」
本当に。いつも食べ終わったら、美味しかったって言ってくれるとても良い人だったのに、残念。どうか転勤先でも良いお店に出会えますように。
「で、良い方は」
「子供ができました」
「は?」
「ご懐妊おめでとうございます」
開きっぱなしの口、床に落ちた箸。肉じゃがが、ぼとりと皿へ急降下。こんな間抜けな顔が見られるなんて、やっぱり夢みたいな話だ。
「何思い出してんだ」
お風呂上がり。背中が急に暖かくなる。「髪拭かないと風邪引くって、いつも言ってるのに」彼の手からタオルをとって、腕を伸ばす。濡れたままの前髪から覗く瞳が、思って通りと語っているのだズルイ男め。
「妊娠報告した時のこと思い出してた」
「……ああ」
彼が人生1のアホヅラを晒し、私が腹の底から爆笑した日。夫婦の忘れられない日であることは間違いない。「あん時はぺったんこだったのにな」見違えるほど丸くなったお腹を、彼が撫でる。ドライヤーは、と尋ねると自分でやると答えた。ちゃんと乾かしてねと言ったら、俺はお前の子供じゃあない、って。そう思ってるなら、自分で髪も拭きなさい。
布団の中、「今日も危ないことはしなかったな」毎日繰り返される同じ質問。よく飽きないなあって笑いながら、ちゃんとうんと答えたら、じゃあ良いって。本当に毎日同じ繰り返し。予定日まで残りすくない。幾度となく確認してきた日付も、気づけばもうすぐそこだ。彼の過保護が加速したことなんて語るに及ばずである。そして、毎日彼に愛されてるなあと思いながら生きられる私がとんでもなく幸せであることも言うに及ばず。込み上げてくる幸せを堪えきれずに、ふふっと笑えば、早く寝ろと彼が髪に触れる。これも、毎日。幸せは、いつも手の届くところにある。松田陣平というかたちで、私のそばにいてくれる。彼は私の幸せそのものだ。
運命というのは、突然降りかかる。予定日より1日早く陣痛が来た。偶然彼が見舞いに来ていたのは幸運だったけれど、痛みに苦しむ私を見て珍しく慌てた彼を、笑う余裕は全くなかった。この子を無事に産んだら、萩原さんたちに教えてあげよう。
母親から散々、それこそ耳にタコができるほどに聞いた話ではあったが、子供を産むというのはこんなに痛いんだなと他人事のように思った。道を歩く全母親を尊敬した。すごい。耐えられる気がしないくらい痛い。びっくり。そりゃあ息の仕方も忘れる訳である。看護師さんがひっひふーとよく知った掛け声。うまくできてるのかももはや分からない。陣平さんの大きな手。安心感はすごいけど、私が潰してしまわないか不安になる。もうすぐ、生まれる。私と、陣平さんの子供。すごいなあ、今になっても嘘みたい。この痛みだけは、嘘だったらよかったな。
pipipi…
「あ“?」
彼が大きな声で喋ってる。このタイミングで電話。今日生まれる予定ではなかったし、警察官というのはそういう仕事だ。そしてその家族も。彼を待つ人は、私だけではない。
「……行って」
ちゃんと助けないと、ダメだよ。陣平さんの目を見て、言った。この子は私に任せて。ほら早く行かないと。
「10分で終わらせる」
「頼もしいなあ」
走って、陣平さんが病室を出てゆく。不思議と、一人だとは思わなかった。彼も違う場所で戦っていると思えば、むしろ心強い。命を、つなぐ。戦場は違えど、使命は同じ。でもやっぱり痛みは尋常じゃない。
結局、彼が、本当に10分で爆弾を解体したというのは、萩原さんから聞いたまた後のお話。出産に立ち会えなかったのがよっぽど悔しかったらしいが、二人目はしばらく勘弁してほしい。