言わなければ伝わらないことは知っていた。それでも言わなかったのは、きっといつか、嫌でも言う日がくるだろうと思っていたから。そういうのを慢心と呼ぶのだと言われれば、その通り。時計の針は、二度と元には戻らない。
好きだった人がいた。学生時代からの長い片思いだった。いつしか私も彼も社会に出て、仕事に就き、友人たちには恋人ができて、結婚式の招待状も届くようになった。たくさん時間が流れ、決して目を逸らしていたのではなく、ただ単に諦めきれなかっただけ。『いつかきっと』呪文のように同じ言葉を繰り返して。
好きだ好きだと、ずっと思い続ければ、この思いは叶うのではないかと信じていた。そんなわけない。いや、でもきっと。相反する心をうまく制御できず、結局毎年彼が好きだと思った。友人は呆れていたけれど、ここまできたらもう頑張れよと背中も押してくれた。
――「こんなに好きなのに」
そう思った時が潮時。彼が同僚と仲良さげに歩いて、レストランに入っていく。それを見て、『こんなに好きなのに』私じゃないのか、と。『こんなに好きなのに』彼は彼女を選び、私は振られるのか、と思って、自分の心の汚さを見せつけられる。
もうやめよう。そう思うには十分だった。彼からくる連絡に一喜一憂して、買い物に誘うのに半日分の勇気を使って、テレビから流れる危ない事件の中に彼の姿を探すのは、もうやめよう。疲れた。叶わない恋に恋をして、ばかみたい。叶う恋もあれば、叶わない恋だってある。気づくのに随分と時間を無駄にしてしまったけど、それでも、好きだったから仕方ない。
そうやって全部やめよう。6年分の勇気を出して、彼とのメッセージ履歴を削除する。こんな簡単に、溢れる涙を胸に支える言葉も消えてしまったら楽なのに。
「……にしても、急だね」
「ん? 何が」
「結婚」
ああそのことかと笑みをこぼす。今日まで何回も言われた。みんな私の恋を知っていた。たくさんの人が応援してくれた。だから、「もうやめる」と言ってたった一年足らずで、結婚すると言い出せば、そりゃあ何か言いたくもなるだろう。
萩原くんは、松田陣平の1番の親友であり、私の旧友でもある。久しぶりに会いたいと言われ、最初は迷ったが、もう吹っ切れたはずなのに会わないのも変かとやってきた。カフェでコーヒーカップをもつ彼は、女の子の視線を一身に集めていて、さっきからヒリヒリする。
「名前ちゃんは、松田のことが好きだと思ってたんだけどな」
テーブルに肘をつき、彼が目を伏せながら言う。どうなんだとその視線が、私に迫る。
「……萩原くんってそんな意地悪言う人だった?」
「はは どういう意味」
「知ってるくせに、」
私がとても好きだった人。あんなにも人を好きになることは、もうないのだろうと、結婚を控えた今でも言える。彼のために一生分泣いた今、あるのは静かで安らかな時間だけ。それを共有していきたいと言ってくれた人がいる。泣いて笑って死にそうになる激しさはなくてもいい。『いつかきっと』が来ないなら、自分を受け止めてくれる人と一緒にいようと思った。唯、それだけのこと。
「うん、知ってるからさ。 なんでかなって」
「私も年取ったってことじゃない? そろそろさみしいし、安定求めちゃったんだよ」
笑いながら飲んだカフェオレはやけに甘い。萩原くんの疑うような視線に居た堪れなくて、カップの中身を一気に飲み干して、鞄を取る。
「私、そろそろ――、」
カフェの入り口、また店内の視線を集める男が一人。ギイという音に驚いて意識を目の前に戻せば、萩原くんが立ち上がっている。
「ごめん、あのヘタレがどうしてもって言うからさ」
「おいハギ」
「へいへい 邪魔者は退散しますよ」
「えっ ちょっと、どういうこと?」
じゃあね、と彼が手を上げる。じゃあね、じゃなくて説明してよと縋っても、ひらり、いつものように交わされる。
残されたのは、松田くんと私。鞄片手にどうしようかと見るからに困った私を前に、いつもと変わらない風で、松田くんが腰を下ろす。
「できれば座ってほしいんだけど」
今更話すことなどない。
そもそも、彼は私に伝えることなど、最初からなかったはずだ。流されるままに再度座った私に、松田くんは手持ちの大きな花束をドンとテーブルの上に置いた。松田陣平と花。珍しい組み合わせだ。
「久しぶり」
「うん、久しぶりだね」
じっと彼が私の顔を見つめたまま、秒針だけがチクタク進む。そう長い時間ではない。しかし、言葉がない分、息が詰まりそうなほど長く感じた。何かあった?と、なんでもない風で聞いてみる。こういう意味のないような会話も、彼との時間で自然と上達したものだ。
「結婚すんだろ」
「うん、萩原くんから聞いた?」
「ああ 正直驚いた」
なんでと言って、笑って、カップの持ち手を指でなぞる。聞いたらいけない気がする。でも、彼の放つ言葉の一言も、聞き逃したくはない。いつまでも、彼が好きだから。もういいのと吹っ切っても、結局、人生で一番好きな人に変わりない。
「アンタは、いつか俺と結婚すると思ってたから」
嘘ではないと語る真摯な瞳の前に、言葉をなくし、やっと出てきたのは「……は?」と言葉にもならない一音。
「アンタは俺が好きで、俺はアンタが好きで、だから誰にも取られないと思ってた」
「え、っと…」
「連絡が来なくなっても仕事のせいを言い訳にして待ってりゃ、またアンタから食事に誘われると思ってたんだよ」
「嘘だ、」
「嘘じゃねえ。次会ったら言おうって決めて、いつも先延ばしにして、その結果がこのザマだ」
呆れたように、彼が吐息と笑みをこぼす。これは夢かとも思った。何年も何年も、彼への思いをこじらせた私に、神様がくれた最後のプレゼントなのではないか、と。
「そんなの、なんで今更、」
「確かに今更だ。でも、今更でも言わなきゃ後悔するって思ってよ」
「……」
「もしかしたら、アンタも後悔してるかもしれねえって、…そうならいいと思ってた」
松田陣平を好きになったその日から、何年も月日は流れ、私は彼に一生分の恋を捧げ、一生分の涙を贈ってきた。それだけやっても叶わぬ恋なら、違う別の形に逃げたっていいだろうと思った。神様だって、友人だって、婚約者だって許してくれたのに、私を振り回し続けた当の本人だけが、それを許してくれない。
あまりに非道い話じゃないか。
「遅いのは承知の上で言いに来た」
さらりするりと流れる涙よ。結局、彼のためにしか泣けない愚か者。
「アンタが好きだ、結婚するなら俺としてくれ」
恥ずかしくて、思わず手のひらで強めに顔をこすった。ああ、アイラインが消えたかも。マスカラも落ちて、パンダみたいになってないといいのだけど。
「後悔なんてしてないの」
松田くんに、最後まで好きと言わなかったこと。そうすればこれからも友達でいられたし、彼に余計なことを考えさせることもない。それが一番幸せなことならそれでいいと思っていたから、後悔なんてしていない。
残ったものが悲しみと苦しみだけでも、それも抱えて生きようと思った。一生分の恋をくれた人だから、それでいい。こころ穏やかに、彼の居場所を守りながら、ゆっくり自分も幸せになってみよう、と。
「でも、今でも松田くんが好きよ、ずっと。これからもずっと、あなたが好きです」
後悔なんてない。婚約者のことも嫌いじゃなかった。私に休息をくれた人。なんて謝っても許されないことなのに、きっと「よかったな」と悲しそうに微笑んでくる人。それでも、死ぬほど望んだ結末に、あなたを裏切る私を、どうか許さないでいて。
松田くんの手が伸びてきて、私のほおを優しく拭った。そして私の左手をとり、薬指に口付ける。夢なら覚めないで。幻なら消えないで。彼が「愛してる」と告げるその時まで。