※「破滅は確定」if

!死ネタif/非倫理的な表現有

 人が己の災いにより身を滅ぼすこと、他人は破滅と呼ぶ。おおよそ間違いでもないのだろうと、私も尾形さんも分かっていた。私たちが、あの晩、病院から抜け出し、踏み入れたのは、人が人としてあるべき道などではなく、只、破滅へと続く地獄の途であった。途中、たくさんの人に出会い、たくさんのことを知り、また、たくさんの出来事を越えては来たが、行き着く先は変わらない。義父を裏切り、國を裏切り、己の運命に背いた私たちは、降り掛かる火の粉を払うことなどできないのである。

 北の果て。そこはまさに人の住むべき場所ではなかった。吹雪で視界は遮られ、一歩間違えれば足元の氷が抜けて、凍てつく海の中へと突き落とされる。生まれ育ち慣れ親しんだ北の大地とは似て非なる場所。いつ死ぬかも知れぬ緊張の中で、私と尾形さんは常に身を寄せて歩いた。ズボズボと音を立てて、雪に足跡が刻まれてゆく。いつかもこうして並んで雪道を歩いたが、それよりさらに深く、さらに歩き難かった。足を取られ、靴の中がじわりじわりと染みて冷たくなってくる。持てる着物は全て着込んだが、それもまるで意味を成さない。雪吹き荒ぶ此の地では、何もかも、意味がなかった。地獄と呼ぶに、相応しい。

 人の終わりというのものは、存外呆気なく訪れるものだ。私は此の破滅の途で何度も人の死を見たが、どれも苛烈で、しかし静かなものだった。時に穏やかな顔で、時に悲壮感溢れる顔で、人は死んでゆく。生と死は、神が与えた唯一平等なものだ。

 海が見えた。本当に果てまで辿り着いたのだなと感慨深い。転々と島が浮かんでいるのが見える。此の海の向こうには異国が広がっていると言うのだから、世界というのは広いものだ。

「丁度良い」

 尾形さんが呟いて、視線を追うと、木の陰になっているところに雪洞がぽかんと開いている。何が丁度良いのだろうか。

「あそこにするんです?」

 彼は黙って、歩き出し、私もその後を追った。雪洞の中はガランとしていて、湿っぽい。しかし風と雪が遮られる分、幾分か暖かった。

「随分と大きな墓穴ですね」

 二人分というにはあまりに広い。簡単に十数人は眠れてしまいそうな広さだ。

「奥へ行ってろ」

 尾形さんは外套を被り直し、雪洞の外へ出た。近くの枝を手折っている。私は一つ置いて行かれないことに安堵して、一歩、灯の届かない暗闇へと、足を進めた。

 尾形さんが枝を乱暴に地面に置き、燐寸で火を付ける。途端に、洞窟の中はぼわんと明るくなった。闇の中にぬらり浮かび上がる尾形さんの顔が、まるで生きていないみたいに見えて、可笑しくて、笑ってしまった。笑ってなどいる場合でないことは分かっているが、最期に陰気臭いのは、どうにも私らしくない。

 パチパチと火が跳ねる音が、吹雪く轟音の中ではっきりと聞こえた。確かに明るかったが、暖かいのかは最早わからない。顔は寒いというより痛かった。凡そこんなところに来るような格好ではない。邪魔になる荷物は全て投げ打って来たが、どうにも手放したくないものは確かにあって、無事かどうか、衣袋に手を突っ込む。写真が一葉、湿ってはいたが、大丈夫なようだ。

「……まだ持ってたのか」

 まるで夫婦のようだと言った写真館の店主の朗らかな顔。良かったなと、我が事のように喜んでくれたアシリパちゃんの可愛らしい笑顔。一葉の写真に収まりきらない、手離したくなかった。それに、此の写真は私と尾形さんが共に居た証明でもある。長い時間を共にした。しかし、此の写真と、あの旅の一行以外、誰もそれを知らない。

「冥土の土産にするつもりです」

 棺桶に、他に入れるものなどない身の上だ。ありったけ着込んで着膨れた今のまま、綺麗な白い着物など着られる筈もない。この世で最も憎んだあの人がくれた外套が死装束だなんて、皮肉な話で、やはり愉快な人生だった。此の外套が、一等暖かい。

 火がどんどんと小さくなり、忘れかけていた寒さを体が思い出し始めるようになって、自分の人生の残り少ないことを知る。ここを最期の場所に選んだ彼の真理など知り得ないけれど、生命の一欠片も見受けられない此処はこの世に二人みたいで悪くはない。随分と、遠いところまで歩いて来た。

「まだ、」

 引き返せると、彼は火を見ながら呟く。まるで心がない。それは私への同情に見せかけた、彼の愛情表現だった。そして本気で引き戻せるなどと、私も尾形さんも思っていない。あの日、あの晩から、私たちは片道切符しか持っていなかった。引き返せると、彼は何度も私に言った。私はその度に貴方と共にいると、返した。それが私たちなりの睦言だ。愛しているだなんて、口が裂けたって言ってくれない人だから。素直な言葉は、いつも火の中に投げ入れてきた。

 蝋が溶けて消えるように、時は流れる。やがて私たちの足跡を追って、師団の誰かが此処へ辿り着くだろう。骨を腐らせる時間もありゃしない。

「悔いは」
「ありません。何なら指でも切りましょうか」
「そいつは、ひどい嫌味だな」

 彼は小さく口元を緩めた。冗談を言えるようにもなった、嫌味だって言えるようになった。言わないけれど、尾形さんて、本当に猫みたいって、そんなことも今はきっと言えるのに。

「火、消さないでいいんですか」

 もう弱い炎だが、それでもまだ燃え尽きてはいない。私たちの命と同じ。こんな綺麗なものであったなら、また違う道があったのかもしれないが、それを今言うのはあまりに愚かだからやめておこう。

「最期までお前の顔が見たい」

 尾形さんの、黒々と濁った瞳に、私が映る。当たり前だけど、少し痩せたな。今の私を見ても、誰も中尉の娘だなんて思わないだろう。望んでいたことだけれど、それでも最期に貴方に見せる顔は、もっと綺麗なものであって欲しかったなと思う。人は最期まで欲深い。

「これで最期みたいな言い方しないでください」

 どこまでも着いて行くと言った。離れないと約束した。隔てるものも、別つものも何もない。死が二人を別つとも、私は貴方の側にいる。「地獄までお供すると言いました」どうか逝かせてほしい。私を一人極楽に置いてなど行かないで。恩に背いた、人の道に背いた。罰が当たるのは当然だ。でも、この愛にだけは、背きたくない。

「阿呆」

 彼が、なぜ笑うと問う。ただ嬉しかっただけ、それだけ。

 もっと恐ろしいものかと思っていた。しかしまだ旅の途中だと思えばそうでもない。一つだけ気がかりなのは、私を殺すこの弱い人のことだった。

「また尾形さんの罪が増えてしまいますね」
「今更一人殺したところで変わるかよ」
「向こうに行ったら、貴方の罪は半分私にくれって、ちゃんと言いますからね」

火が跳ねる。さっきよりずっとはっきりと聞こえたので、外の雪は弱くなったのかもしれない。彼が、まかり取るもんかねと言った。押し通してみせますよと言えば、笑っていた。女は案外強いのだ。

「地獄行きが一人か二人かなんて、さして変わらないでしょう」

 彼が、消えかかった焚き火の中に、もう一本、燐寸を擦って投げ入れる。火が改めてぼうっと息を吹き返す。互いの顔がはっきり見える。手を伸ばして、彼の右目がかつてあった場所に触れた。ぽっかりとそこには何もない。もう痛みはないと彼は言うが、痛みを我慢するきらいのある彼のことはあまり信用していない。

「せめてこの眼だけは、返してくれるといいですね」

 尾形さんが、私の手を取って、そのまま唇を私のそれに押し付けた。痛いほど強く手を握るこの人に、私は大切なものを全て殺させてしまう。罪悪感と愛情は紙一重。逃れようもなく、絡まる舌は、最期に彼の人としての温度を教えてくれた。

「すぐにいく」

 糸を引いて離れて行く、彼が唇を舐めながら言った。私は頷いて、やっぱり火を消さなくてよかったなと思った。すぐに会えるけれど、ほんのすこしだとしても、彼と離れるのは辛い。すぐに、会いましょうね。彼が細めた瞳を最期に焼き付けて、私は火を消した。

永遠を手探り