真綿で首を締められるように、ゆっくりと、彼の存在が私の日常を侵食していた。尾形百之助という人は、若くして主任になったすごい人。おまけにお洒落で、格好良い。ちょっと無愛想なきらいがあるが、そこも素敵じゃないと言っていたのは、二つ隣のデスクのみよちゃんだ。みよちゃんは中々のミーハーだが面食いなのは本当なので、まあきゃあきゃあと騒ぐ理由も分かる気がした。あれで仕事ができて、将来安泰。それはモテるよね、と、これが、私の彼へ抱く気持ち全てのはずだったのに。

「尾形主任って、名前には特別甘いと思わない?」

 私の前で、一週間頑張ったご褒美にと、夜パフェを頬張っているんはやっぱりみよちゃんだ。私とみよちゃんは同期入社で仲が良い。特に同期で同じ課にいるのは私しかいないから、こうなるのは当然の流れだった。

「そう、かなあ」
「ええ、絶対そうだよ! いつも難しそうな顔してるのに、名前にはなんか雰囲気柔らかいって言うかさあ」

 分かるでしょう!と彼女はなぜか息巻いていたので、そんなことないよと思わず否定してしまったが、そういう自覚がないわけではない。尾形主任とは私の仕事柄話す機会が多い。だから仲良くしてくれているのかもしれない。もしくは、入ったばかりの頃に仕事が遅くて残業していることが多かったので、その時に何度か話をすることがあったからかも。アドバイスをしてもらったこともある。そのおかげで、今じゃあ仕事にもだいぶ板についてきた。残業だって、今のように繁忙期でなければ多くない。そう言えば、前はちょっと遅くなった時、よく飲みに誘ってもらったな。主任のチョイスはいつも美味しかった。ああ見えて、話を聞くのもすごく上手で、って……私は何を思い出しているんだ。

「その顔、主任のこと考えたでしょ」

 むう、と唇を尖らせた私に、わかりやすいねえとみよちゃんが笑う。わかりやすいのだろうか。結構可愛げがないで有名な私なのだけど。

「でも、名前だって満更じゃないでしょ! 良いじゃん、付き合っちゃいなよぉ」
「他人事だからってそんな簡単に、」

 ミーハーっぷりは私に向けて発揮しなくていい。むしろ御免だ。

 満更でもないと言われてしまえば、まさしくその通りだし、尾形主任が素敵な人だって否定する人なんているもんか。上司からの評判は、隣の月島係長を除けば上々だ。古い馴染みらしいが、どうもソリが合わないと、いつかの酒の席で話していた。

「いいなあ、尾形主任」
「まだ何もないってば」
「でも主任が本当にその気だったら?」

 どうするのよ、となぜか私は責められ、それはさあ!と、また唇を尖らせながら、パフェを一口奪ってやった。


「まだいたのか」

 ロッカーから戻ってきた主任は、デスクから忘れていたらしいスマホを取ると、私のチェアの背に手を掛ける。

「これだけ終わらせていこうと思って、主任は今からですか?」
「……これだけ終わらせたらだな」

 彼は私のデスクからファイルを上から二つ引き抜いて、それでポンと私の頭を叩いた。そんな悪いから、と止めようとする私を意に介さず、さっさとやれと自分のデスクの電源を入れてしまう。ああ、久しぶりに迷惑をかけちゃうなあ。半分以下になった自分のデスクの仕事を見て息を吐く。半分以上持って行ってくれたが、それでも私より早く仕事を終えてしまう彼のことを考えれば、効率的だと納得してしまう。私もまだまだだ。

「本当、ありがとうございました。助かりました」

 ぺこりと頭を下げれば、彼はああと、コートに腕を通す。結局思っていた三分の一の時間で終わってしまったから驚きである。終わり頃にちょっと顔を出そうと思っていた飲み会も、しっかり参加できてしまう。

「すみません、私のせいで行くの遅れちゃって」

ポケットに手を入れながら、私の隣を歩いていた尾形主任は、目を猫みたいに丸くすると、いや、と口ごもる。

「……お前が行かないなら、行かないつもりだった」
「え?」

 それって、どういう意味だ。「えっと、」そんな私って仕事面に頼りがないのか、それとも、それとも。「さみぃ」私に何も訊かせないようにと、彼が少し歩く速度を速めた。わざとらしくハアと息を吐いた彼は、どことなくいつもと違うような気が、しなくもない。もしかして、照れている、のか。あの、尾形主任ともあろう人が。

「早く行くぞ」

 私は頭をブンブン振って、小走りになる。今は、いい。またいつか考えよう。

「いやあ、珍しいな、主任がこんなんなるなんて」
「ってことで、名字、タクシーは呼んどいたから」
「えっ、私が送って行くんですか」

 当たり前だろうと、タクシーに押し込まれる。何が当たり前なのか教えて欲しい。言い返そうとしたら、ドアがバタンと閉まったので、諦める。くそう。

「主任、住所教えてください」

 つい2時間ほど前。少々遅れて飲み会に参加した私と尾形主任は、当然の流れで隣の席となり、飲み食いを楽しんだ。いつもあんまりお酒は飲まない尾形主任は、実は弱いとか、上司の時しか発揮しないザルだとか、まあ色々噂はあった訳だが、真実前者だったらしい。いつも以上に口が少ないなあと思った頃には、もう結構な量のお酒を飲み終えた後で、すっかり酩酊した主任がいた。しっかり私に体を預けて寝てしまったので、飲み会の後半はずっと体が重かったし、周りの生温い視線に晒されて心も重かった。

「絶対明日から何か言われる……」

 付き合ってるのかどうかとか何とか。勘弁して欲しい。

「主任着きましたよ」

 すっかり起きるのも億劫になってしまったらしい主任に、肩を貸し、タクシーを出る。メーター止めといてあげるよ、と優しい運転手さんに感謝して、彼の住んでいるという大きなマンションに入った。ふらついてはいるが意識はある。まあ危なっかしいが、玄関のところまで送れば、あとはどうにかなるだろう。

「すまん」
「いいですけど、珍しいですね」

 みんな驚いていましたよ、と。私のこんな会話、覚えてもいないんだろうな。というか、私がここまでここに来たことも忘れてしまいそうだ。それはそれで構わないけど。私の肩に回った腕の力が、少しだけ強くなる。意外とたくましい腕だなあとか、飲み会の途中からずっと触れ合っている体は分厚くて、とか。そんな不埒なことを考えている私もそこそこ酔っている。できれば、今日のことはすっかり忘れてしまいたい。無理だろうけど。くそう。

 1018と書かれた部屋の前で、ここですかと聞けば、彼がああと頷いた。じゃあ私帰りますよ、と言うと、ちゃっかり左手を握られて、「水、」と言ってくるもんで、仕方ないなあと思いつつ、何となく振り払ってまで置いてゆく気にはなれない。今日の彼は、いつもと違って随分と頼りないし、いつも頼りっぱなしの私としては、それが少しだけ嬉しかったりもする。

 ドアが開いて、玄関に座り込んだ主任の横で靴を脱いだ。お邪魔しますねと一言断り、部屋に上がる。黒で統一された物の少ない部屋。予想どうりというか、それっぽいというか。とにかく今は水だ。どんと置かれた冷蔵庫も、一言申し訳程度に断って開けたが、驚くほど何も入っていない。2Lの水と缶ビールが2本。自炊はしないらしい。

「飲めますか、はいどうぞ」

 グラスを渡す、手が触れて、思わず、あっと言ってしまった。彼の手がとても熱くて、いや、もしかしたら冷えたグラスに触れた私の手が冷たかっただけかも、しれない。間違いなく、そうなのだけど。「名字」グラスの水を一口飲んだ主任が、グラスを廊下の脇に置く。仕事は終わった、帰らなきゃと思うのに、彼の声に縛られたように、体が動かない。

「男の部屋にのこのこ上がって、どうなるか分かってんのか」

 声とは裏腹に、私の腕を掴んだ彼の腕は驚くほど優しい。

「それは、「いい」

 じわじわと、毒でも飲んだように、彼に囚われていた。さっきまで酔いつぶれていたのが嘘のように、その瞳に映る私は鮮やかだ。腕を掴んでいるのと逆の手が、私の首に触れた。まだ振り払える。嫌なら逃げろ。試されているのか。

「尾形さ、」

 しい。彼の唇が横に結ばれて、言葉を失う私は、いつから、彼の罠に嵌っていたのだろう。わからない。考えたくない。明日朝が来て、全部忘れていたらいいな。彼も私も。

「何も聞かん」

 ゆっくりと迫る終わりの時に向け、私は目蓋を下ろした。おやすみなさい。

夜の深きに花の色