※エース救済後if
小さい頃は、あんな簡単に好きだと言えたのに。誰しもが、どの世界にいても抱える悩み。小さな頃は、隣の家の犬にも、お店の常連だったおじさんにも、同じ学校だった男の子にも、好きだと思えたものにはなんだって好きよと言えた。それなのに、大人になると、どうしてか、その言葉が喉につかえて出てこない。伝えられない言葉は、やがて形を失って消えてしまう。そんな感情を持っていたことすら、ひとは忘れてしまうのだ。
彼と歩く道が好きだった。お店を閉める頃、あれやこれやと理由をつけて最後まで残っていた彼が、『もう遅いから送る』といつものように切り出した。
「アデルちゃん、待ってるかもしれませんよ」
「もうとっくに寝てる時間だ」
それに今日はじいさんが来てるから平気だ、と彼は壁にかけていたパーカーと帽子を手に取り、私を目で急かす。送らなくてもいい口実を態と与えて、それでも彼が、送る、と言ってくれるのを期待してる。浅ましい。分かっていても、彼に『行くぞ』と微笑みかけてほしかった。
長身の彼が私に合わせて狭める歩幅は、彼の言葉より雄弁に思いを語る。この素直になれない青年が、そのことに気付いているかは知らないが、それでもゆっくりと流れてゆく景色を見ながら、焦れったい彼の気配を感じているのは楽しい。
「……店は順調かよ」
「おかげさまで。優しいお客さんが、毎日のように来てくれるので」
「迷惑だったか?」
それを迷惑でないと知りながら彼が問う。ふふふと息を吐けば、白くなる。この春の島にも、もう冬が来ていた。
「……まさか」
一歩、また一歩。冬を確かめるように、私たちは歩いた。
「待ってるんです、あなたを」
冗談に混ぜて、本音を言うのは、ずるい大人のすること。そんな大人にはなりたくなかった。でも、ならずにはいられなかった。
「…んなこと言われなくても、行くよ」
私たちの春は、まだ遠い。
死を覚悟した、というのは、幾度か死線をくぐってきた私にとって、あまりに大袈裟である。しかし、迫り来る白刃と腕の中の小さな温もりの鮮明な対比が、私に生と死を強く焼きつけた。こんなところで死ぬのは嫌だなあ、と思いながら、目をぎゅっと瞑ったとき。軽やかに現れた彼は、鋭い蹴りで刀を綺麗にへし折り、またも逆足の蹴りで男をぶっ飛ばした。相も変わらず、野蛮な世界である。
「…大丈夫か?」
人だかりの中心で伸びている男には目もくれず、振り返った彼は私の前に膝をつき、心配そうに私の顔を覗き込んだ。驚きでこくこくと頷くことしかできない私を苦笑い。すると、私の腕の中でじっとしていた少女が、顔を出し、こちらもまた「大丈夫か!?」と不安げに瞳を曇らせていた。
「うん、大丈夫、ありがとうね」
彼はそれに安堵したように息を吐くと、少女にひとつげんこつを落とした。聞けば、兄妹だと言うから、言われてみれば、似ていると思わないこともない。初見では気づかないけれど。
盗みを働いた男を勇敢にも引き止めた彼女を、男は突き飛ばし、あろうことか懐から取り出した刃を向けた。一部始終を運悪く目撃してしまった私は、先に述べたように庇って、ちょいと厄介なことに巻き込まれた訳だけれど。何はともあれ、みな無事で良かった。男は捕まり、一件落着である。
「あんまり無茶しちゃダメよ」
「そうだ、人様に迷惑をかけるな」
「ごめんなさい」
女の子は名をアデル、青年はシュライヤと名乗った。しゅんと落ち込むアデルちゃんの頭をそっと撫でれば、ごめんなさいともう一度言われてしまったので、謝る必要は無いと応えた。悪いのは全部あの男。
言葉遣い、服装。それに無鉄砲な性格。些か少女らしさに欠ける彼女の、女の子らしい白く細い足に、赤く血が滲んでいる。先ほど男に突き飛ばされた時に怪我してしまったのだろう。子どもに怪我を追わせるなど万死に値する。
「こんなの、唾つけとけば治る!」
どこまでも少年らしい彼女に、わたしは苦笑いしつつ、その足の怪我に左手を翳した。
「痛いの痛いの、とんでけ」
スっと消えた傷跡。彼女は目を輝かせ、彼は怪しげな眼差しで私を見た。すごいすごいとはしゃいでいる彼女の横で、シュライヤさんはが「……アンタ、能力者か」と訊ねる。違うと言えば、アデルちゃんが、「麦わらの兄ちゃんとは違うのか」と首を傾げる。
「麦わらの兄ちゃん?」
「おう、腕がゴムみたいに伸びるんだ!」
シュライヤさんの方に視線をやると、その通りだと言わんばかりに頷かれ、私は笑いと共に息を漏らした。ルフィくん。まさか目の前の彼等もワンピースの登場人物だったとは。どこまでも、私は運命から逃げられないらしいと悟った。それは、春島の麗らかな春のできごと。
彼の笑う顔が好きだった。口角をニィッと上げて、得意げに笑う顔が。お酒を飲みながら、話をしながら、窓の外の波を見ながら、私の作ったご飯を食べながら、彼はよく笑い、美味いよと何度も言った。
「それはよかった」
ちらりちらりと私とグラスを往復する彼の視線に、気づかないふりをした。なんですかと問うと、なんでもないと慌てる彼も随分と好きだったけれど、それよりも息が詰まりそうな空間で、息を潜めている方が好きだったから。店を見渡し、お酒を用意し、オーダー通りに料理を進める。忙しい、という隠れ蓑は、私と彼にとって都合がよい。お互いがお互いを意識していない風を装って、時折重なっては慌てて逸らされる視線の交わりを、楽しんでいたのだ。
彼の声が好きだった。寄り道してもいいか、と言った彼は、私の返答を待たずに、家とは違う方向へ歩き出す。人と生きることを得意としない彼は、昔海賊狩りとして名を上げたと言うから、納得である。ルフィくんたちのことも狙って、何かあったのか。私はシュライヤさんとアデルちゃんのことをまるで知らないので、新しい部類か、もしくは映画に登場するキャラクターということも有り得る。
黄色のパーカー、ポケットに手を突っ込み、白い息を吐きながら、彼はあれこれと話をした。私はそれをうんうんと聞きながら、彼の半歩後ろを歩く。冬の夜の匂い、彼の低い声。何もかも、寒いはずなのに心地よい。
彼の話は、全てが全て楽しいものではなかった。喪ったと思っていた妹の話、復讐のために費やした時間の話、海賊狩りとして海を巡った話。少しずつ紡がれる糸が、今の彼を徐々に形づくる。生きてゆく上での、大きな目標を終えたふたり。私たちは、どこか似ている。
彼のことが好きだった。何時何分、この世界が何回回った時に、私の新たな恋が始まったのか。気づいたらここに居て、少しでも彼と一緒に歩いていたい、彼の話を聞きたいと、らしくもないことを思うようになった。
シュライヤさんは、港の先で足を止め、さみぃな、と当たり前のことを言いながら鼻を擦る。びゅうびゅう吹いてくる冷たい風に吹かれながら、私は訊ねる。「寄り道の理由は?」素直になれない、優しくもできない。欲張りで。…ああ、嫌だな、良いところが見当たらない。
「俺が、……アンタのこと、好きだって言ったらどうする?」
不安そうに、いつもの自信たっぷりな笑顔はどこへやら。私がそれを笑えば、不満そうになんだよと拗ねたような言葉を口にする。彼はまだ、好きという生易しい言葉を腐らせずに持っている。
「シュライヤさんこそ、私もあなたのことが好きだって言ったら、どうするんです?」
ここから、愛は始まるだろうか。ようやっと心を吐き出した私に、まさか好きだと言われるとは思わず驚く彼。得意げに笑うのは、私の方だった。