※降谷視点

 ここに一枚の写真がある。レストランの前で、コックの服を着た男とウェイターの格好した女が並んで映っている写真である。
 ふたりは片方の手に荷物を持ち、もう片方の手で控えめにピースサインをつくっていた。歳は若く、大学生か、少なくとも20代前半に見える。アルバイトの写真。そう言われ、しっくり来て納得し、一つの記憶の引き出しが開く。今は亡き親友が、学生時代のアルバイトについて話していた時の記憶だった。

 諸伏景光という男は器用な男だった。
 長い指でギターを弾き、包丁を扱い、銃の引き金を引く。彼の指先で成し遂げられないことなどこの世には一つもなかった。だからその指先に全幅の信頼を置いた。何か不可能に見えることも、その指先が希望の隙間をこじ開けるだろう、と。それが可能な男であろう、と。

 だから初め、その信頼が崩れ、希望などこの世には残っていなかったのだと知った時、自分の心中は嵐の海よりも遥かに荒れていた。
 終始高波が心の岸部に打ちつけ、そのうちの幾度かは波が防波堤を乗り越えて濡らすようにして、不規則な吐き気を覚えた。ムカムカと抑えられない感覚に、周囲には悟られぬようにしてトイレへ駆け込み、便座の中に顔を突っ込む。えづいたところで、何も入っていない胃からは酸っぱい液体しか出てこない。それが沁みて、目に生理的な涙が浮かぶ。トイレの鏡に映る自分という男の顔はひどく情けなかった。それを見て、泣かなかったのに、とどうにもならないことを考えた。

 器用な男であったからこそ、諸伏景光という男は死んだのだと思う。
 彼が、もっと不器用で、自分に関わるあらゆることに不自由を覚えるような人間であったら。もしくは、もっと傲慢で自分本位で、献身の心の欠片も持たない人間であったら、——少なくとも、今生のように若くして命を絶つことにはならなかっただろう。
 器用にライフルを扱い、器用に人の心のきびを読み取り、自然に、相手には気づかせない形で物事を進めることを得意としていた男であったからこそ、彼は永遠に死んだのだ。

 諸伏には恋人がいた。数年前までの話になるが、それが最後の恋人だった。
 相手は、学生時代に同じ店でアルバイトをしていた人だった。同じ時に卒業したけれど、歳は一つ上だったという。だから、彼は彼女のことをさん付けで呼んでいた。それだけのことしか、その恋人に関することは知らなかった。
 彼は元より口数の多い人間ではなかったが、殊に恋愛の話になるといっそう引き締めて口をつぐんだ。野郎数人が集まり酒を酌み交わせば、時間の経過とともにそういった色恋ごとの話が出るのはあくまでも自然なことであったが、そこでも諸伏は多くを語らなかった。質問されればポツリと答えたが、全てに答える訳でもない。

『んー……教えない』

 彼はそう言って笑い、友人の質問をはぐらかした。
 最初は恥ずかしいのだろうと思った。自分の恋の話をするのは恥ずかしい。照れ臭さがある。それは理解できた。しかし、その考えが誤りだと気づいたのは、諸伏が警察学校に外泊届を出し、それを友人らと尾行した夜のことだ。
 諸伏は、彼女と合流してすぐに自分たちに気づいた。あるいは指摘したと言うのが正しいかもしれない。いずれにしろ、いつか終わると分かっていた尾行ごっこは呆気なく終わり、簡単に挨拶をしてふたりとは別れた。
 その時の、諸伏の顔を、今でもはっきりと思い出すことができる。
 彼の恋人に話しかける友人たちへ向ける視線。そこには呆れやおかしみも当然存在していたが、多分に嫉妬を孕んでいた。それは平時、独占欲と表されるものだった。

 そこでようやく、ああ、と思い当たる。
 ああ。あれは、自分たちに言いたくないのではなく、知られたくないのだ。
 恋人の愛らしく美しい顔を、自分の心の中にだけ留めておきたい。他の男のどんな視線の前にも晒したくない。そういう確固とした熱情を、男は冷静で温和な表情の下に隠し持っていた。

 一度だけ、諸伏に面と向かって聞いたことがある。
 恋人はどんな人か、と。
 長く友人という関係にあったが、諸伏のかつて幾人かいた恋人のうち、興味を抱くのは初めてのことだった。だから諸伏もその問いに目を丸くして驚きを隠さなかった。自分がこういう話をするとは思わなかったのだろう。自分自身も意外なくらいだから無理もない。
 それから、諸伏は「んー」とさも考えているような声を漏らしながら、数十秒の間、唸っていた。どんな人という質問はアバウトすぎたかもしれない。しかし、それ以上に聞きたいことはなかった。

『どんな人、か』
『なんかあるだろ』
『強いていうなら、……かわいいひとだよ』

 男のその蕩けそうな声色と、優しさだけで固められた表情に、目を丸くするのは今度は自分の方だった。そんな顔もするのか。純粋にそう驚く。男同士では確かになかなかお目にかかれない、まさしく『恋』を体現したような顔だった。
 「かわいいひと」という講評に、なんと返したか。記憶が定かではない。でも確か、「そうか」だの「へえ」だの、とにかくいい加減な返事をしたような覚えがある。その時は、その恋人が諸伏に与えた恋の一撃の大きさに正直呆気に取られていたのだ。
 本当に。本当に、その人のことが好きなのか。
 口には出さずに終わった心の中の呟きは、羨望と呆れのちょうど中間にあった。

 というのが、この一枚の写真から開かれた記憶である。
 ここに映っているのは諸伏と、そのかつての恋人だ。
 公安になり、黒の組織への潜入捜査が決まった時、自分たちは死を選んだ。それと同等の覚悟だった。自分たちがこの世界に生きていた痕跡はすべて消し、降谷零という人間も、諸伏景光という人間も殺さなくてはならない。その中で、唯一消されずに残った記憶が、この写真である。

 忘れていたのではなかったと思う。
 かつて諸伏と書かれていたロッカーの中に、その写真だけが一枚、ポツリと残されていた。諸伏の名札が消えたのちも誰の名前も埋まらないそのロッカーは、長きにわたり開けられることすらなかった。——唯一人、諸伏の手を除いて。

 時々、本当に稀に本庁へ顔を出した時、諸伏は決まってそのロッカーを開いた。しかし、開くだけでその写真に触れることはなかった。視線だけをそれに注ぎ、まるで充電でもしているかのようにしばし時間を過ごし、そしてそれに触れることもなく扉を閉める。執務室に戻ってくる男の顔に、現世への未練など見えなかった。

 それは諸伏のものではなく、あくまでも、ロッカーの前の持ち主が置き忘れていったものだった。そうでないと、この世に残しておくことはできなかった。たまたまそこにあるだけでないと、存在すら許されない。諸伏はそれを分かっていて、いつまでもそれをあのロッカーの中に存在させていた。おそらくはあの写真こそが諸伏にとっての力であり、光だったのだ。だから、その写真がロッカーにあるのを誰もが見て見ぬふりをした。

 男の死後、彼女に会ったのは全くの偶然だった。
 この写真に映るひとは、今も諸伏のことを覚えていた。それもかつての恋人の一人としてではなく、諸伏景光という一人の男として、彼女はその記憶を頑なに頭の中に繋ぎ止めていたのだ。

 彼女とレストランで向かい合って食べたハンバーグの味を、自分はほとんど覚えていない。肉の柔らかさもソースの濃さも、初めから感じなかったように記憶から抜け落ちている。
 代わりに、彼女のキッチンの方へ向ける物憂げな視線、寂しさも愛おしさも隠さない微笑、男の死にまつわる事象を「きけないよ」と言った声。その時の、向かい合わせにいた彼女の些細な動きだけが、色濃く残って、他のものを潰してしまっている。

「もう、消えちゃったから」

 まだ諸伏という男を消し去れない彼女のその言葉に、返す言葉は何もなかった。その通りであったから。
 諸伏景光という男は確かに消えたのだ。この世界から。記憶という厄介な荷物だけを残して。

 死に際した時の男の無念さを、心が千切れんばかりの恐怖と痛みを、生きる自分が押し測って引き受けた気になるのが偽善だ。だから、しない。できそうにない。

 (なあ)

 一枚残された写真に問う。一度死んだ男が、誠に死んだ時、残るものはなく、壊れた携帯とこの写真だけが諸伏の遺品とも言えるものだった。

 (なあ、……まだ。大切だっただろう)

 返事はない。返事を聞いたら、心が壊れるという自信すらもあったけれど、叶うことならもう一度声を聞きたいと願う自分もいる。死してなお生に抗う我が身は、叶わないことしか願えない。

 (あのひとのことを、かわいいひとだと思っていたんだろう)

 傷ひとつないまま数年の間、ロッカーの中に眠っていた写真を陽の光の下に引っ張り出す。たとえそこで日に焼けてしまうことになっても、この写真はここにあるべきではない。存在してほしいと諸伏が願う場所に、これはあるべきなのだ。
 昏い希望に侵食された家主不在のロッカーの中ではなく、前を向き、それでもあの男を失わずに生きてゆく彼女のところへ。

 写真を送った。もう自分の手の届かない場所へ行った。
 今まで幾度かあった親友を送り出した時の気分と似ている。それでもまだ、涙は出なかった。