甲板に出ると、寒い風が温まっていた体を一気に冷やす。寒い、とは口から無意識にこぼれ落ちた。寒い日は傷が沁みる。エースくんも同じ気持ちなのだろうか知る由もない。彼が元気で健やかならばそれでいい。片手にコーヒーカップ、もう片方の手にふかふかのブランケット。いつもと同じ装備を両手に抱え、マストの下、腰を下ろした船長さんの元に。
『寒いだろうから持っていってやれよ』と、ペンギンさんのお節介め。あの人はきっと確信犯だ。わざとあんな薄いパーカー1枚で。
「船長さん」
風邪ひきますよ、ってほら。私はちゃんと手のひらの上。
押し付けるようにコーヒーカップを渡す。ブランケットを広げると、俺は要らねえと言っていたが、私が寒いんですと言えば、それ以上は何も言ってこなかった。波のさざめき。潮の匂い。突き刺すような寒さ。思い出すにはちょうど良い。私たちは、いつも同じ思い出の中にいる。
「船長さん待ちですよ、出港はまだかって」
熱々のコーヒーと、膝の上のブランケットがまるでその言葉の説得力を失くしてしまう。彼は黙ってコーヒーを啜る。まだそのカップ、使ってたんですねとは、照れ臭くて言えない。いつからとか何がとか、そんな明確な理由は別に欲しくないのだ。
「いい加減、その他人行儀な呼び方やめたらどうだ」
「……キャプテン?」
呆れた、と彼は隠しもしない。キャプテンは素直じゃないなんて、これを見ても言えるのか。私が笑う。すごいスピードで無くなっていくコーヒー。私の入れるインスタントはそんなに美味しいか光栄だ。「ローさん」やっと、彼が私を振り返る。私が笑えば、彼は目を逸らす。
「ローさん」
お願いだ、目をそらさないで。ずっと、呼びたかった名前は照れ臭い。まるで、自分の声じゃないみたい。でも、心底愛おしい。彼を想う、遠い空の人たちの思いも込めて、その名前を、私はこれからも呼び続ける。彼の手がほおに、伸びる、ああ今キスをしたらきっと苦いだろうなと思いながら、逸る心臓はそのままに。
「……?」
待てどもやってこないそれに不思議に思っていると、低く「おい」と声が響く。え、私怒らせた?
「——何やってんだ、お前ら」
ハッと驚いてドアの方を見れば、こっそりとも言えないレベルで覗いている野次馬がたくさん。誰か嘘だと言ってくれ。
「のぞき見とはいい度胸じゃねェか」
「違うんすよ、シャチがどうしてもってしつこくて……!」
「あ、おいペンギン、お前、」
「おいお前ら」
「「「「「ヒイイ」」」」」
相変わらず、だなあ。この人たち。大好きだ。
「暇ならちょうどいい、出航だ」
準備しろ、とキャプテンの声が響く。
「「「「「アイアイ、キャプテン!!」」」」」
怯えていた彼らが慌てて、バタバタと動き出す。私も、お手伝いに行くことにしよう。
「名前」
キャプテンが、私の腕を掴む。どうしましたかと振り向いて、今度こそ重なる唇。少し乾いてる。不意打ち。そんなのってずるいよ。「行くぞ」晴れ晴れとした空。新しい思い出。大きな傷跡。にんまり笑った皆さんの笑顔。今日は、きっといい日だ。
「どこまでも」あなたと、一緒に。
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BGM
・ケツメイシ「バラード」
・福山雅治「最愛」
・天野月子「骨」
・ぼくのりりっくのぼうよみ「つきとさなぎ」