▽Law
「これって誰か使ってます?」
キッチンの奥、若いクルーの一人がペンギンにものを訊ねた。それに答えたのは、後ろから顔を出したベポ。
「あ、それ名前のやつ!」
もう彼女がこの船を出て、3年になる。いい加減、誰も彼も忘れてしまったって不思議じゃない。人間ってのは不便なもんで、大切なものばかり増やしたがる生き物だ。もう忘れたと思ったつもりで、彼女の名前を聞くと、否が応でも目の前の本から集中が逸らされる。
「名前?」
「あ、そっかお前入ったの2年前だっけ」
「じゃあ名前のこと、知らないね」
誰なんすかと訊ねたそいつも、俺も知らないっすと口を挟んだあいつも、彼女の後に増えた仲間は片手では収まらない。前居たコックだとペンギンが言う。すごく料理が上手いのだとベポが言う。彼女が作る料理がどんなだったなんてとうの昔に忘れたが、それが美味かったことだけは忘れなかった。
「じゃあこの踏み台、もう使わないっすかね」
こうやって時は経つのに、キッチンの隅に未だ居座るその小さな思い出を見ないフリして、そのままにした。いなくなることも、捨てることも望まなかった。ただ手が届く場所にあれと、望むことはそれだけだったのに。
「まあでもそんなに場所取らねぇし、もう少し置いておいても「邪魔なら捨てりゃあいいだろ」
俺たちに、踏み台なんて必要ない。マグカップと鍋が仕舞われた上の戸棚。ここに手が届かないのは、あの女だけだった。
「いいの?」
「……いいも何も、俺は使ってない」
この安いインスタントコーヒーをあんなに美味く淹れるも、あの女だけ。
何か言いたげなペンギンとベポに、好きにしろよと言い残し、コーヒー片手に甲板に出る。夜の海。さっきの会話のせいで、どうしたって彼女のことを思い出す。
コーヒーの匂い、彼女の膝の上のブランケット。ブラックは飲めませんと言った渋い顔。馬鹿馬鹿しい話だ。忘れないのではなく、忘れられない。彼女は一人になりたいフリをする俺の嘘を見抜くのが上手かった。
『待ってる人がいるって、大切なことです』
あの日、彼女が出さなかった答えを、いつか奪いに俺は行く。その先のことはどうだっていい。ただもう二度と俺は何も失いやしないと、そう言ってくれ。