スカイピアの暮らしが見たいという私の提案を、エネルは思ったよりすんなりと受け入れてくれた。本当に、心の底から暇らしい。私を軽く抱えたエネルは空島までやってきた雲状のボールに乗り、あっという間に森を抜けた。次に地面、ではなく雲に足をつけたのは市場の入口で、非常に活気に溢れている。想像したとおりに背中に小さな羽を生やした人たちが楽しそうに笑っているのだ。
「おお」
私は感嘆の声を上げ、入っても?と尋ねる。エネルは少し嫌そうな顔をしたが、私の煌めく瞳に根負けして、構わんと一言呟いた。案外甘っちょろい男だ。
私は楽しくなって意気揚々と市場に踏み出した。見慣れない食べ物、見慣れない服、聞きなれない音楽。何もかも、青海とは違う。あれは、ダイヤルの店だ。あれがかの有名な空島のダイヤルである、どんどん歩いてゆく私の後ろを、ゆったりとエネルはついて歩いた。やがて、喧騒が止み、エネルに気づいた人たちは皆、恐怖を顔に浮かばて恭しく膝をつき頭をたれる。戸惑う私を他所に、エネルは歩みを止めず、ついに私を追い抜かした。非常に居た堪れない。私はただの誘拐された可哀想な女であり、偉い人間ではこれっぽっちもないのだ。
「か、神様、……これ」
「気にするな」
「でも」
「グズグズするなら置いていくぞ」
「あ、ちょっと」
エネルが市場に行きたいと言った時に嫌そうな顔をしたのは、こういう訳だったのか。たしかにこれは、あんな顔にもなる。すたすたと歩いてゆくその美しい背中は威厳に充ちているが、所詮、虚構に過ぎない。モーゼのように人並み割れた道を足早に進む。この場所を、一秒だって早く抜けてしまいたかった。
「楽しめたか?」
「逆に、楽しめたと思いますか?」
市場をぬけ、広場に出ると、そこはもぬけの殻。ありえない。噂を聞いた住民たちは一斉に逃げ出したのだろう。本当に、本当に居た堪れない。私は片手に雲のように柔らかなソフトクリームを握り、眉をひそめた。これはもう逃げるのも億劫になった肝の据わったおばあちゃんから、ワゴンで買った。エネルが。普段買い物なんてしないのであろう、不器用にコインを受け渡ししている様に、私はとても萌えた。だって可愛い。
「いつもあんな感じなんですか」
「町に出ることはそう無い」
うん、まあ。マントラだっけか、恐らく後の覇気と呼ばれるあれを操るこの男は、スカイピア全ての声を聞けるそうだ。遠隔から雷を落とす能力もあるし、もはや無敵。わざわざ敵を倒したり、反逆分子を除くのに、彼は外に出てゆく必要すらない。
「じゃあ満員電車もスクランブル交差点も知らないんですね」
「なんだそれは」
エネルだけでなく、この世界の大体の人間が知らないというツッコミなら却下だ。私はこの世界に生きて20数年、何なら元いた世界よりも長くここで生きている。だが、どういう訳だか、前世の記憶は時折こうして顔を出し、私をノスタルジックな気持ちにさせる。今も、そう。満員電車に揺られて高校に通った日々。電車にはとんと良い思い出がないが、今となってはあの鮨詰め状態も少し恋しい。
「誰も貴方を避けて通ったりしません。人がたくさんいて、それぞれがぶつからないように、こう、体を上手く使って躱すんです」
「試練か」
「そんな大したものではないですが」
私は少し置いて、日常だ、と答えた。あれは私の日常の一部だった。特別なんて言葉は、世界を変えれば通用しない。
「興味がおありなら、今度青海に降りた時にでもご一緒しましょう」
とっておきの混雑スポットを見つけておきます。溶けかかったアイスを舐めながら、私は笑う。エネルは無意識なのか、そっと周囲の空気を和らげると、「行くと思うのか?」と言った。全く思わない。