「名前、ぼく嫌だよ?」
私の右腕にしがみつくシロクマ。その愛くるしさはこの世のなにものも寄せつけない。ズドンと矢が刺さって、私の心臓から血がダラダラである。いったい。かわいい。なにこの生き物。
「やーだーやーだー」
ペボさんは有難いことに、私がこの船を降りる旨を伝えるとさっきからこの調子である。そこまでね、惜しんでくれて本当にありがとうございますって感じなんだが、右腕を振り解けないから辛いところ。こんな可愛いシロクマはこの世にも前世にも簡単に居るもんじゃないから、私だって離れるのは辛い。
「わがまま言うんじゃねーよ」
「名前困ってるだろうが」
昨晩お宅の船長さんの方がもっと困らされられました。自業自得というかなんというか、皆さんに非はないので全面的に受けいれます。泣き落としに罵詈雑言、ドンと来い。「だってぇ」「だってじゃない!」こんなやり取りももう見られなくなるのかと思えば寂しくて、本当はもっと一緒にいたいのだと言う権利もない私は微笑むだけ。かわいいなあ、ベポさん。
「言っとくけど、嫌なのはベポだけじゃないからな」
「俺だって寂しいっつーの」
「ペンギンさん、シャチさん」
むにぃ、とふたりはそれぞれ私の頬を引っ張った。うししと笑う顔は少しだけ悲しそう。ベポさんは今にも泣きそう。私、大事にしてもらったなあ。毎日美味しいって言ってもらえて、買い物も付き合ってくれて、戦闘の時はいの一番に避難させてくれたし。(ああ、本当に)やさしいひとばかりが、わたしに優しくしてくれた。
「ありがとうございます」
髪をわしゃわしゃにされた。それをもーって手ぐしで直して、ご飯の用意をしなくちゃと立ち上がった。もうすぐ、新たな海にゆく。
▽Law
船が発進して半日。このまま行けば明日の朝にはグランドラインに入れる予定だ。今日は初めての潜水に加えて、ノースブルーを離れることもあってか全員がソワソワと落ち着かなかった。今はみんな静かに眠っている。厨房のあいつを除いて。
「コーヒー」
カチッとコンロに火をつける音。カップがふたつ並べられた音。やかんに水を注ぐ音。静かだから何もかも聞こえた。俺はカウンターチェアに腰掛け、名前はキッチンの向こうで沸いたお湯をコーヒーに注ぐ。瞬間、良い香りが全体に広がった。
「また夜更かしですか」
「ああ」
「身体によくないですよ」
分かってる。医者の不養生だと笑えよ。どうせ不健康。名前は自分のココアを抱えて、ふぅふぅしながら飲んだ。極度の猫舌なんだと照れながら言っていたのは、こいつと初めて船番をしたときだ。腐るほどある思い出を、全部腐らせずに抱えてる。そっちの方が照れくさい。
「潜水艦ってすごいですね、わたし初めて乗ったんです。海の中もすごく綺麗で」
綺麗な笑顔を見て、昼間、潜ったあと少しでも艦内に顔を出せば良かったと思った。今日はずっと管制室にベポと篭もりっきりだったのだ。もしも出てきたら、海に目を輝かせる横顔を見れたかもしれない。真正面じゃどんな顔をしてしまうか分かったもんじゃない。
「良かったな」
持ってきた本を開く。彼女は皿洗いを始めた。水の流れる音、かつては鬱陶しく感じたそれも心地よい。時々視線を上げても、彼女は気付かない。この距離感も心地よい。手は届く、でも息の触れ合わない。このくらいが俺たちにはちょうど良かった。
棚を開けて彼女が皿を仕舞う。コップを片づける。キッチンの隅に置かれた踏み台は、俺がずっと前に買ったものだが、今もう必要ない。彼女の手が届くように、頼んで作らせたこの場所だった。嘘までついて、後には引けない。〈お前のためだった〉と、その簡単な言葉が伝えられない。行くなと困らせることはできたのに。繋ぎ止めることは叶わない。せめてコーヒーが残っているうちは、と言い訳をして、湯気の立たないそれを口をつけた。大きめのカップ、目覚ましのコーヒー、ぶあつい医学書。ぜんぶ口実。