的を得ない私の答えに、短気な彼が痺れを切らし、長い足でカツカツと近づいてくる。腕が私の方へ伸びた時、血を這うような低い声がそれを止めた。
「——触れるな」
「……チッ、お目覚めか? ロー」
閉ざされていたローさんの目がゆっくりと開く。小さく何度か息を吐き、静かに辺りを見回して、近くに私がいることを確認する。そして船で別れた時と違い、私が傷だらけになっているのを見ると、さっきよりも一層深く眉間に皺が寄る。そんな怖い顔、恋人に向けないでほしいのに。なんて。
「お前、——!」
「まだダメですよ、傷がひどくなりますから」
「それは使うなと言ったはずだが」
「お叱りなら後でにしてください」
そんな悠長に喧嘩している暇は、ないだろうから。
「相変わらず面白いお嬢ちゃんだ。ますます気に入った」
スートの間に重苦しい空気が漂う。ローさんの手は固そうな石の手錠で繋がれている。簡単に解いてしまえないということは、つまり海楼石でできたものと見て間違いない。能力のない今、ローさんは彼に囚われ、私は戦闘力ゼロ。あんまり不利だ。
その時、その空気を破るような絶叫が王宮全体に響き渡る。
「外壁塔正面入口より報告! 侵入者〜〜! 麦わらのルフィです!」
ドフラミンゴが咄嗟に後ろを振り返す。背後のモニターには闘技場らしき場所の様子が映し出されている。大きな牛のような魚と戦っているのは、”ルーシー”と呼ばれた仮面の男。ルーシーってもしかしてルフィくんの偽名? 分かりやすすぎない? 否。しかし、だとしたら今報告に上がった侵入者は一体——
「じゃあ今、コロシアムにいるアイツは誰なんだ! いったい何が起きてる!」
轟音の鳴り響く王宮。窓の外には砂煙が立ち昇る。な、何が起こってるの?! ドレスローザ編、ローさんの過去のところ以外情報ゼロなんですけど!
ドフラミンゴの本日何度目かの舌打ちと、ローさんのため息。今の状況が私たちにとって良いのか悪いのかすら不明だ。誰か説明してくれと言うこともできず、頭の上にはてながたくさん浮かんでくる。傷は痛いし、状況は分からないし、とにかく最悪なことには間違いない。
「報告です! ただいま、ピーカ様が1階にて侵入者と戦闘中。侵入者は麦わらのルフィ、海賊狩りのゾロ! ヴァイオレット様が麦わらに加担しているものと見られます!」
「……もういい。下がれ」
「ハッ!」
部下からの報告を受け、ドフラミンゴの口元に不敵な笑みが浮かぶ。見上げるほど大きな体と、私のことなどすぐにでも握り潰せそうな大きな手。彼のすべてが恐怖だった。だから、彼はいつも孤独なのだ。
「お早い助け舟じゃねえか、ロー」
「あいつらは関係ねえ、これは俺の問題だ。だから——」
「お前の考えなんかそれこそ関係ねえ。重要なのは、これから何が起きるか、だ」
ルフィくんが到着するまで、どうにか穏便に済ませたい。ローさんの能力の使えないこの状態で攻撃でもされれば勝ち目はない。
重苦しい空気。喧騒の中に一度沈んだ沈黙が再び浮かび上がってくる。腹の探り合い。ドフラミンゴの腹の中が読めたら、今頃こんなことにはならなかっただろうに。彼の射抜くような視線が、ローさんではなく私に突き刺さる。
「お嬢ちゃんに確かめたいことがある」
恐ろしかった。逃げ出したかったし、泣き出したかった。でもダメだ。逃げたら、大切な人を守れない。それはよく知っている。私はそうやって、ここまで自分の足で歩いてきた。
ローさんの傷が腹の底から痛んで、熱を帯びてくる。ローさんの中に巣食う怒りや悲しみまで、私の中に息づくように。
「名字、答えるな」
「お嬢ちゃんは、未来を知っている。——違うか?」
ドフラミンゴの周囲に控える幹部が、まさかという顔をする。そうだ、そんなことはあり得ない。でも、ドフラミンゴの視線は真剣だ。彼は本気で、私がこの物語の一部を知っていると疑っている。一生、誰にも話すことのない私の一番の秘密について、彼が手をかけた。それは開けてはいけないパンドラの箱だ。開ければ、この世界の秩序を乱しかねない。
「そんなことがあり得ると本気で思っているんですか」
「この海であり得ないことなんか何一つない。お嬢ちゃんも知ってるだろう」
ローさんがもう一度「答えるな」と言う。掠れたような声に胸が痛んだ。誰に何を言われようと、答えるつもりはない。これは私が一生守るべき秘密なのだ。誰にも渡すつもりはない。それは大切な人を守るのと同じように、命をかけるべきものなのだ。きっと、きっと。そうでしょう? 神さま。
「私が、未来を知っていても、知らなくても、それをあなたに言うことはない」
ドフラミンゴの静かな怒りが、部屋全体へ広がっていく。
「でも、これだけは言える。……トラファルガー・ローは死にません」
もしも彼の放つ鋭い糸が、世界で一番愛しいこの人の命に向けられるのなら、私がそれを受け止めよう。命に代えても果たしたいと誓った彼の復讐が叶えられるように、私も同じ命を賭けるだけ。今度こそ、この人が、前を向いて生きていけるように。
「私が守るから」
そして、その時、隣に私もいられるように。