牧紳一は悩んでいた。バスケットボール以外のことに真摯に頭を悩ませることは滅多にない。勉強も学校生活も家のことも、悩む時間がもったいない気がして直感で決めてしまう。もうちょっと悩んだ方がいいんじゃない、と親からよく言われるがバスケット以外のことに時間をたくさん割くのが嫌だった。
だからそんな男が部室で、うむ、と悩んでいるのを見て清田も神もバスケットのことで悩んでいるのだろうと思った。確信した。であるならば、自分たちにも相談してほしいと手を挙げたのだ。牧は後輩にたいそう慕われていた。
「名前で呼ばれたいんだ」
「「え?」」
どうしたんですか牧さん!と、清田が大きめの犬みたいな勢いで飛びついた。牧は少し悩んだ後で一人で考えても仕方ないと思ったのか、重たい口を開いた。少し恥ずかしそうな顔で。その時、表情の機微にめざとく気付いた一つ下の後輩は「あ」と思ったが、清田は気付かなかった。そういうことには疎い。
でもって言われたのが、それである。
名前で呼ばれたい。
ちょっと意味が分からなかった。
「——紳一さん?」
「違う、お前じゃない」
清田の顔に青色の縦線がガーンという効果音と共に落ちてくる。神はふさふさの後輩の頭をポカリと殴りながら、「ばか」と言った。ばかな子ほど可愛いと言うが、清田はまさにそれである。
「彼女さんにですか?」
「……ああ」
「ええ!? 牧さん恋人いたの!」
「いるでしょ、たまに見学に来てる」
「ええ!? あの人っすか!?」
ばかで可愛くて犬みたいに髪がふさふさふわふわの後輩はうるさかった。牧紳一の繊細な悩みなど、彼のばかみたいに大きな声で呆気なく吹っ飛ばされてしまう。恥ずかしいからもっと小さな声で喋ってほしい。
牧はゴホンと咳払いを一つして、後輩二人に向き直る。やっぱりこんなこと相談するんじゃなかったかとも思ったが、恋愛ごとに疎いのは自覚がある。今は猫の手も、いや犬のような後輩の手でも借りたい心地なのだ。
「てっきり牧さんの片思いかと……ってえ!」
余計なことしか言わない清田の頭を、神が今度こそ強めに殴る。うるさかった口は痛みによってしばし閉ざされた。
しかし、牧とて清田の言っていることは理解できた。恋人は確かに部活にもたまに体育館に顔を出してくれて、差し入れをしてくれる。その度に話をしても、彼女が自分を頑なに「牧くん」と呼ぶせいで一見するとクラスメイトにしか見えないのだ。
それに対して、牧は男らしく素直な性分であるので、清田の目から見ても思いが溢れていたのだろう。「あ、この人好きなんだ」とあっさりバレた。無茶苦茶恥ずかしい。
「普通に名前で呼んでくれって言ったらどうです?」
「いや、」
「そうっすよ! 言ったらきっと呼んでくれますって」
「……もう言った」
「断られたんですか」
清田の顔に「そんなわけない」とハッキリ大きく書いてある。かの後輩の牧への信頼はちょっと度が過ぎている。この人が拒絶されるはずがない。きっとそう思っているのだろう。
牧だって、恥ずかしかったけれど、でも言わなければ伝わらないと分かっているし、言わないことを察してほしいなんて言う傲慢さは持ち合わせていない。素直に、思った時にもう言ってある。
にも関わらず、呼んでもらえないから悩んでいるのだ。
「名前呼びは違和感がすごいらしい」
「……ああ」
清田と神の気持ちは一致していた。ちょっとわかる、と。でもそれを言ったら愛するキャプテンがきっと傷ついてしまうから堪えた。海南大附属バスケ部は空気の読めるやつの集まりだ。デリカシーしかない。
「で、でも牧さんは呼んでもらいたんですよね!」
「……まあ」
だって恋人なんだし。
それくらい望んだって普通だろう。牧は思った。普段部活ばかりで恋人らしいことがあまりできない分、彼女といられる時間を大切にしているつもりだ。我慢させている自覚もある。だから少しでも恋人らしいことをしたかった。牧紳一もまだ十八歳の高校生なので。
「じゃあ、こういう作戦はどうですか?」
「なんスカ!」
悩める高校生。牧紳一は、後輩の言葉に耳を傾ける。海南大附属バスケ部は風通しのいい部活なので、下の意見もちゃんと掬い上げる風土がある。
神の意見を聞いて、牧はそれ成功するのかと疑問だった。でも、今はそれしか具体的なアイデアがない。藁にも後輩にも縋りたい、……というほど焦ってはいなかったが、やってみる価値はあるだろう。何事も挑戦と実践あるのみ。
日もとっくに沈んだ帰り道。牧は彼女と連れ立って校門を出た。今日は体育館の点検で終わり時間が早く、彼女も勉強のために学校に残っていたので、一緒に帰ろうとあらかじめ言ってあったのだ。
こうして二人で並んで歩くのも久しぶりだなと思った。校内で話すことはあれど、校門の外で話すチャンスは案外少ないのだ。牧は頭の中に、帰り際「ファイトっす」と言ってきた可愛い後輩のことを思い浮かべながら、どう例の話を切り出すか悩んだ。またバスケット以外のことで悩んでいた。
「そういえば、牧くんって後輩から名前で呼ばれてるんだね」
悩んでいたのに、あっさりと彼女の方からその話題を振られて、牧は内心動揺する。早速効果てきめんなんだがどうしようと、すまし顔の後輩に脳内でヘルプを出す。神は一つ年下だが、なかなかに頼りになる男である。あれでいて、海南バスケ部で一番モテるのは神だ。親しみやすさが女の子に人気らしい。
「ああ」
「最近? 前はそんなことなかったよね?」
「監督が言い出したんだ」
「えっ、高遠さんそんなこと言うんだ。意外」
嘘だった。部員が自主的に言い出したことなので、監督はビビっていた。突然どうした、と。
しかし、言い出せるはずがない。名前呼びの違和感を軽減するために、まずは後輩に呼ばせてますなんて。というかそれを提案したのは後輩の方だが。
いずれにせよ、最近はずっとそうなのだ。後輩は牧を「紳一さん」と言う。牧さんの方が100倍呼びやすいと分かっていても、尊敬するキャプテンの恋路を応援するために、コート上以外ではそう呼ぶようん努めていた。
多少の煩わしさはあれど、清田なんかは対価として牧に「のぶ」と呼ばれて嬉しそうにしている。揺れる尻尾が見えるみたいだった。
「でも、なんかちょっといいなと思ったよ」
「え」
「仲良さそうでいいなって」
彼女が屈託なく笑う。牧はちょっとだけドキドキした。これ本当にいけるんじゃないか。神、あいつは天才。努力家だとみんなは言うが、あいつはすごい。
「……お前も呼べばいいだろう」
よし言った。言ってやった。言えたぞ、神。
脳内に住み着いた後輩に報告する。脳内・神は相変わらず感情の読めない顔でニコニコしていた。大方、意外と恋愛下手な先輩を微笑ましく思っているだけ。
「んー紳一くんって?」
「ああ」
「確かに。でもなあ、なんか」
「なんか?」
彼女の言葉の続きを待つ。悩んでいるみたいだった。二人は好き合って付き合った恋人同士なのに、名前呼び一つでそんなに悩む必要があるだろうか。つまるところ、牧が一番疑問なのはそこである。彼女の気持ちを疑うわけじゃないが、少し、ほんの少し、寂しいのだ。
「牧くんってほら、すごく大人っぽいでしょ」
「……まあ、そう言われることはある」
よく言われる。初見で実年齢より下どころか、実年齢で見られた試しがない。
「だから、私が名前で呼んでたらなんか私が余計に子供っぽく見える気がして」
「そうか?」
「考え過ぎだと思うんだけど。あと名前がさ」
「うん」
「紳士の紳に一番の一で紳一。私、牧くんの名前すごい好きだから、呼ぶとドキドキしちゃうんだよね」
暗いところでも分かるくらい、彼女は恥ずかしそうに顔を赤くしてそう言った。前に聞いた時は違和感がすごいと言ったのに、あれは照れ隠しだったのか。なんだ、落ち込み損だった。というか杞憂だった。
牧は彼女の今の発言が一番『ドキドキしちゃう』言葉の気がしたが、照れ臭くって言えなかった。恋人が可愛い。今はそれしか頭にない。どうしよう、神。
「……無理にとは言わないが、呼んでくれたら嬉しい」
「うん、もうちょっと待ってて」
「名前」
「ん?」
暴れ出しそうな心臓を平気なふりして隠し通す。そういうのはバスケットで鍛えているから得意だ。顔に感情があんまり出ないのはただの生まれつきだけど、ラッキーだった。出なければ、世界で一番ダサい表情を晒してしまいそうだから。
「俺も名前の名前好きだよ」
牧紳一は、もう悩むのはやめにした。
TITLE:花畑心中