※「Flyday」軸

 珍しく午後から休みになった日。これといってやりたいこともなく、松田は愛車を米花町へ向けて走らせた。暇さえあればすぐ恋人のとこ行くってさァ、と拗ねたような羨むような声で言ったのは萩原だった。松田はそれを「うるせー」と一蹴したが言っていることは間違いじゃない。現に今日だってそうしているし、何なら帰りがけ、午後も仕事の萩原から「どうせ名前のとこ行くんだろ」と笑われ済みだ。

 これまでのどんな恋より真剣に夢中になる幼馴染がおかしいのか、萩原の揶揄いは彼女と付き合い始めてから、——否。付き合い始める前からずっと続いているし、彼女と別れる予定もないのでおそらく死ぬまで続くんだろう。松田はそれについては既に諦めていた。

 今日の午後は彼女も店があるだろうから、先に家に上がっているか。店の中で忙しなく動く彼女を見ているのだってそこそこに楽しいものだ。あんまり忙しい時には松田も少し手伝ってやって、それを見た常連たちに「将来安泰だね」と笑われる。
 二人はいつだってどこだって、皆から微笑みを向けられるのだ。

 信号待ちの最中、彼女が作る夕飯に早くも思いを馳せていると、反対側の道路に偶然、今思い描いていた顔を見つける。名前だ。見間違えるはずがない。
 買い物の途中だろうか。それにしても偶然だった。
 ちょうどいいし、反対に回って家まで車に乗せよう。松田は先のUターンできそうな場所を考えていると、路肩に停めた車から男が一人颯爽と降りてきて、彼女がそちらを見る。パッと笑顔を咲かせた彼女は、男に誘われるまま——多少は遠慮していたようだが——、停められた車に乗り込んで行ったのだ。

「ハ、?」

 何だ今の。
 いや、というか。今、彼女を拾った男も松田のよく知った顔だった。

「諸伏、だよな……?」


 時刻は22時を少し過ぎたところ。松田はようやく本来の目的地であった彼女の店兼自宅へと車を停めた。店の入り口には既に[close]の看板が下げられている。というか、それを狙ってきたので当たり前だが。

 あのあと、松田は一直線に彼女の家へ向かうのをやめ、海の方へと進路を変更した。今しがた自分が見た光景が、松田が彼女を見つけたのと同じたまたまであると理解している。諸伏がたまたま彼女を見かけたから、重そうな荷物を見かねて「送る」とでも言ったんだろう。そういう優しさを使える男なのだ。

 しかし。分かっていても、何となく気に入らなくて。すぐに顔を合わせれば余計なことを言って傷つけそうな予感がした。
 諸伏が優しさを持ってそれを正しく使える男だとしたら、松田は使い方の方にはてんで自信がない。いつも、どこかで間違って、女を泣かせたことだって何度もあった。名前相手には最大限の優しさと気遣いで持って接するように努めているが、あの時は、そうできる自信が消えてしまったのだ。

 だから頭を冷やす意味で車をちょっと遠くまで走らせて、昼ごはんを食べ損ねたことも忘れて、閉店時間に合わせて店に来た。まだ着いている店内の明かりに安堵する。ここに来ると途端に腹が減ってくるから不思議だ。

「——あ」
「松田?」

 車から降りて、店のドアを開けようとした時、それは向こう側から開いて、中から彼女と諸伏が出てきた。これまた嫌な偶然だった。今まさに帰ろうという様子の諸伏は、松田が目の前に現れて驚いている。名前の方は慣れた様子だけれど。

「すごいタイミング! お帰りなさい、陣平さん」
「……ああ」
「今帰りか? お疲れさま」
「おう。珍しいな、諸伏がここ来るの」

 昼間、彼女を拾ってから、それからずっとここにいたのだろうか。
 どちらもそれなりに社交的だし、過去に顔を合わせたことも何度かある。知らない仲じゃない上に、松田の恋人ということもあって話は弾むだろう。
 そこにやましいことなど何もないと分かるのに、今は上手く笑いかけてやれない。くそ、と自分自身に心の中で舌打ちをした。

「たまたま会ったんだよ。夕飯いただいて、悪いな」
「いや、謝ることじゃねえだろ」
「そうか。また来るよ、……今度は松田がいる時に」

 松田の人に知られたくないところを目敏く見つけて、諸伏が笑う。ポンと肩に手を置いて、颯爽と青春を暖め合った友人は帰ってゆく。去り際まで完璧だと嫌になる。そう、嫌になるくらい格好いい男だから。だから、松田は嫌なのだ。

「おかえりなさい。ご飯食べる?」
「……食う」

 カウンターのいつもの席で、松田は調理する恋人の背中に視線を注いだ。車を飛ばして晴らしたはずのモヤモヤが、昼間よりも確実に大きくなっている。いい歳して、自分の機嫌も取れないなんて。そんなんだから幼馴染に揶揄われ、友人に気を遣われるのだ。全くもってダセェな、と一人ゴチる。

 松田は嫉妬や束縛を嫌う男である。
 これまで、過去に付き合った彼女とはそれにまつわるアレコレで喧嘩した。何ならそれが原因で別れたことだってある。松田は縛るのも縛られるのも嫌いだ。女というのは色んなことに嫉妬して、アレをやめろ、これをやめろと言ってくる。
 それに「鬱陶しい」と言ったら最後、関係性は破綻する。

 だから、今、自分が抱えているモヤモヤが嫉妬であると分かった上で、それを彼女にぶつけるのを躊躇っていた。自分がされて嫌なことは相手にしない。そんなことは、幼稚園生でも実践している。

 しかし、既に折角の半休を不意にしているのに、これ以上、嫌な気持ちを継続させるのは松田にとっても彼女にとっても良くはない。こういう時、萩原や諸伏なら上手く聞いて、スマートな言い方でそれとなく相手に伝えることができるだろう。ああ見えて、班長も意外とそういうことのできる男だ。……降谷は、まあ自分と同じ。女に叱られるタイプ。よく知らないが。

「陣平さん?」
「ん」
「どうしたの? お腹やっぱり空いてない?」
「いや空いてる」
「そう? なんか変な顔してるよ」

 カウンターの向こうから、彼女が笑って手を伸ばした。眉間に寄ったシワを伸ばすように、彼女の指がそこをぐりぐりと押してくる。それがあんまり眩しくて。やっぱり黙ったまんまじゃいられないと思った。

「……今日、諸伏と会ったろ」
「え? うん。陣平さんもさっき会ったじゃん」
「昼間だよ。大通りのとこで」
「見てたの」
「たまたまな」

 松田のシワ伸ばしをしていた手が離れて、彼女がじーっと視線を松田に注ぐ。んだよ、とつれないことを言いながら、松田は自分のダサさに辟易していた。言いたくない。本当なら言いたくないけど、でも、言わないと笑えないからダメなのだ。

「……あ。分かった」
「は?」
「私が諸伏さんに送ってもらうとこ見て、それでさっき会ったから、ずっと一緒にいたのかなって思ってる?」
「……」
「当たりだ」

 分かりやすい、と笑いながら彼女はカウンターを出て、松田の横のイスを引く。普段は特に聡くも鈍くもないくせに。松田限定で発揮される彼女の察しの良さは、僅かな年の差とその余裕を見せられているようで好きじゃない。

「送ってもらったのはたまたまで、その時お昼に誘ったんだけど、仕事あるからってわざわざ閉店後に来てくれたの。一緒にいたのは松田さんが来るまで、ほんと30分くらいだよ」
「……そうかよ」
「忙しいとご飯抜きがちになるのは誰かさんのおかげで知ってるしね」

 ふわふわの松田の髪を、彼女の手が撫でる。居た堪れない。恥ずかしい。照れくさい。でもやっぱり言ってよかった。
 松田は敵わねえなと思いながら、大人しく頭を撫でさせたままでいた。子供扱いされている気がしなくもないが、彼女に躊躇いなく触れられるのは恋人の特権なので。

「心配した? ごめんね」
「アンタが謝る必要ねぇよ、俺が気にしただけ」
「私が逆の立場でもね、同じ気持ちになるから」
「んじゃまあ、そういうこと」

 ようやくスッキリ解決し、これで思う存分彼女との時間を楽しめる。軽くなった上に晴れた心うちに、松田が一人安堵していると、「でも」と彼女が疑問を口にした。

「萩原さんの歩いてても変わんないのに、諸伏さんはダメなの?」
「……あー」
「萩原さんの方が付き合いが長いから?」
「ちげえよ」
「え、じゃあ何」

 ……アンタが、諸伏の顔が一番タイプって言ったから。
 何年前かも忘れたが、彼女が確かにそう言ったから。だからそれを一生気にしてるなんて、どうして言えるだろう。松田は口をつぐむ。首を捻る彼女をどう誤魔化そうかと思案しながら、残り僅かになった親子丼をかき込んだ。

あの子の左手首が愛おしい

本編「ダンシングオンザムーン」参照
TITLE:花畑心中