「あのなぁ」と言った彼の声には明らかに呆れが含まれていた。「何よ」と可愛げのない返事をしてから、あーあと自分自身に嫌気が差す。
彼の言いたいことは分かっていた。今日一日、チラチラと向けられる視線に気づかないようでは警察官は務まらない。席を立つ瞬間に、誰かと話している間に。休憩から戻ってきたところに。少し離れた彼のデスクから、ほとんど睨んでいるような視線が飛んできていたのだ。
「無理すんじゃねーよ、体調悪いならさっさと帰れ」
「体調悪いなんて、一言も……あ! ちょっと、」
松田が、私の手を掴んだ。手のひらを包むようにして握られた。彼のカサついた親指が私の掌の膨らんだところをなぞって、それがくすぐったくて恥ずかしくなる。じわじわと羞恥が顔に集中していくのを感じながら、そっと松田の方を見れば、バッチリ目があって「ほらな」と言われる。
ほらな、って。これは違うし。
そう言いたかったけれど、言ったらややこしいことになるのは明白で言い出せない。私の顔の赤みをすっかり熱だと決めつけた男は、手を握ったのとは反対側の手で、今度は頬に触れてくる。「触るぞ」って言えばなんでも触っていい訳じゃないのに。全く罪深い。
「熱あるだろ」
「平気」
「だとしても帰れ馬鹿」
退勤時間まであと1時間。それが過ぎたら私だって大人しく帰って、解熱剤でもなんでも飲んで寝ようって思っていた。本当だ。
それなのに、松田は私の手をあっさり離すと私のデスクからカバンを引っ掴んで、ついでに自分のバッグも持って颯爽と廊下へ戻ってきた。隣のデスクの萩原くんに「俺とこいつ、1時間休」と言うのも忘れずに。
「何勝手なこと言ってんの」
「帰んぞ」
「あと1時間くらい働ける」
「いいから、行くぞ。もう休暇出した」
出したのはアンタじゃなくて萩原くんでしょう。引っ張られる腕になすすべなく引き摺られながら、去り際、室内に目をやればポカンとこちらを見やる同僚の中にニコニコ笑いながら手を振る萩原くんを見つけて、そっと熱い息を吐き出した。親友は似るというのはどうやら本当の話らしい。
いつもなら。もう少し抵抗して、彼が諦めるまで粘って戦うこともできたかもしれないが、如何せん体調不良なのは本当なのだ。彼の愛車の助手席に体を置けば、ダルさに体を乗っ取られて一歩も動きたくなくなった。
朝から、ダルいのと熱があるのは分かっていて。それでも今日は非番が多くて人手が少ないから無理して出てきた。眠気の出ない弱目の薬は一応飲んだし、ここまで案外やれていたから隠せていると思ったのに。
「……なんで気づかれちゃったかな」
誰にも指摘されなかったから行けたと思っていたけれど。目敏い同僚にはお見通しだったらしい。それはそれで自分で言い出すよりも恥ずかしい気がして、ますます気分が下がる。よりによって松田にバレた。
「見てるからだろ」
「は、」
「俺がお前のこと」
そりゃ今日は1日監視してるのかってくらい見てたけど。いつも見てるみたいな言い方、何それ。
熱にやられた頭は上手く回らず、「どういう意味」と尋ねるほかない。私の質問に松田は答えず、信号待ちで後部座席からブランケットを取り出すと「着くまで寝てろ」とだけ言った。
「——おい、着いたぞ」
結局、喋るのは億劫で静かにしていたら本当に寝てしまったらしく、さっきよりも幾分か柔らかくなった声で揺すり起こされる。
目を開けると確かに私のマンションの前だった。以前にも何度か送ってもらったことがあるのだ。1回寝たせいか増したらしい頭の痛みと、上がった気がする体の熱。体調不良は一旦自覚するともうだめだ。とことん悪化して峠を越えないと下がらない。
「ん。ありがとう」
今夜来るだろうそれを想像すると、それだけで嫌な気分になるが、寝て耐え凌げば済む話。ここまで放置した自分が悪いと諦めて、ブランケットを畳んで車を降りた。降りて、屈んでもう一度お礼を言おうと運転席を覗くと、そこにいたはずの男も今まさに車を降りたところだった。
「コンビニ?」
「ちげーよ。ほら行くぞ」
「は。部屋まで来るの」
「途中でぶっ倒れるかもしんねーだろ」
「大丈夫だよ」
「お前のそれは信じてねえ」
さっさと車のロックをかけて、私よりも先に松田はマンションのエントランスに入る。家まで送ってもらったことは何度かあれど、部屋まで来るのは流石に初めてだ。全くの想定外すぎる。松田ってこんなに面倒見よかったっけと首を傾げながら、二人、エレベーターに乗り込んで部屋へ行く。
自分の部屋の前に着いて、鍵を取り出して中に入る。どこまで来るんだろうと思いながら、未だ「じゃあ」と言いそうにない松田に「帰れば」と言う気にはならず、私も何も言わなかった。
部屋に入って、電気をつけて、リビングまで行ったところで後ろを着いて来ていないことに気がついて振り返る。玄関のところで靴も脱がずに立ち尽くす男が一人。所在なさげにいるのがなんだか見慣れなくて可笑しい。
「上がっていくかと思った」
松田はチッと何故か舌打ちをして、ガサガサ靴を脱いで上がってくる。なんだ、結局上がるのか。
松田はリビングまで来ると左手にぶら下げていたビニール袋から、薬とスポーツドリンクとゼリーを取り出す。それとカップ麺とインスタントのおかゆ。私が寝ている間にドラッグストアに立ち寄ったらしい。松田らしくなく優しいなと思いながら、彼のことなんてほとんど何も知らなかったなと思い直す。
こんなに。優しくしてくれる人なのか。
繊細な手先に反して粗野な物言いや、お世辞にも言えない態度でそうとは思わなかったけど。そうか。そうなのか。嬉しさ半分、寂しさ半分。これじゃあ、きっと女の子がほっとかない。
「ここ置いてくからさっさと寝ろよ」
「……手厚いね、ありがとう」
素直に「助かったよ」と言えない可愛げのなさは、もはや熱が出たところでどうにかなるようなものじゃない。自分自身に一番呆れながらヘラリと笑えば、それを見た松田の眉間に皺が寄った。なんか怖い顔してる。理由は分からない。もうすっかり熱が上がって、さっきから多分、まともじゃないのだ。
「お前それ間違ってるから」
「どれ。何の話?」
「今考えてることだよ」
なんで私の考えてることが松田に分かるんだ、と。普通に笑い飛ばしてしまえば良かった。でも色々なにもかも追いつかなくて、分かんなくなって「はあ?」と言い返す以外になにも言葉は出なかった。
それが分かったのか、分かっていないのか。松田はそっと私の手を引いてベッドの上に座らせると、自分はその目の前に膝をつく。目線を合わせて、まるで子供に言い聞かせるみたいな姿勢で、私の顔を覗き込んできた。
「誰にでもする訳ねぇだろうが」
「、なに言って——」
「お前にだけだから」
そっと、時が止まる。
私を見つめる松田の目に嘘はない。嘘はないから余計に混乱する。真面目な顔でなに言ってんの。本当に。
「お前だから体調悪いのも気づいた。家まで送った。何でもないやつにここまでするほど、お人好しじゃねんだよ」
松田がもう一度、手を伸ばして私の額に触れる。今度は「触るぞ」と許可も取らずに。私の顔は多分また赤くなって、それを見て、目の前の男は笑っている。「熱上がってんな」って、誰のせいだと。
「こんな時に、なんでそんなこと」
「勘違いされんの腹立つから」
「は、短気じゃん」
「そーだよ。だからあんま時間ねーと思っとけ」
「時間?」
離れていく手を惜しいと思う。
それは私がいま体調不良で、それなりに心が揺らいでいるからだ。そうじゃないと、またそれもややこしい話になる。
「ほぼ言っちまったが、まあ、治ったら改めてな」
「……勘弁してよ」
「やなこった」
私が必死に、その“ややこしい話”を回避しようとしてるのに、肝心の相手がそれを持ち出してくるもんだからもうどうしようもなかった。今夜最高潮に悪くなるだろう自分の体調ですらウンザリなのに、それを越えた後のことを考えるのも恐ろしい。
視線と熱と優しさと。一つ一つに意味と名前を与えていく。それって一番恥ずかしいでしょ。そういうの苦手なんだけど。吐き出したため息は、彼のいなくなった部屋に音もなく吸い込まれて消えていった。
TITLE:花畑心中