「Flyday」if
水曜日、15時少し前。
慌ただしく過ぎるランチもラストオーダーを終え、最後のお客さんを「ありがとうございました」で見送ったところだった。これから片付けをして夜の準備もしなくては。その前に、余ったもので自分のお昼でも。
何の変哲もないいつも通りのお昼だった。私は疲れた肩をぐりぐり回しながら、お店のプレートをcloseに変えようと外に出る。
「あら、もうお終いかしら」
薔薇のような声だった。声だけで、その声の主が美しいと直感で理解する。どことなく聞き覚えがあるような予感がしながら、ゆっくりと振り返り、「すいません」と言おうとした。
本当に、言おうとはしたのだ。
それは声になる前に驚きに飲み込まれ、「あ」という間抜けな音に変わってしまったけど。
「すいません、もうランチは終わりですよね」
「えっ、ああ……えっと」
間抜けヅラを晒す私の前にいたのは、恋人とゴールドとシルバーのちょうど中間をいく美しい髪を下ろした女性。というか、ベルモットだ。そして、その隣にいるということは彼は今、私の恋である降谷零ではなく、バーボンであることを意味する。
それは、流石にマズイだろう。チラリと零さんを見る。彼もまたあからさまにマズイという顔をしていて、ほんの少し緊張がほぐれる。にしてたって、なんでこんなことになったんだ?
「今しか時間がなくて。どうしてもダメかしら?」
ベルモットの艶やかな声が、私にねだる。そんな声で何かを言われたら、確かにNOとは言い難いだろうなと思う。女である私ですらグラっと来そうだ。
「……すみません、もう時間は終わっていまして」
「ほら迷惑をかけてはいけませんよ」
「このお店がとても美味しいと聞いたのよ。だから」
だから、その後に続く言葉はない。私はバレないようにごくりと唾を飲み込んだ。いや、バレていたかもしれないけど、そんなことを気にしている余裕は微塵もなかった。
やばい、やばい。
頭の中はパニックで、何を言えばいいか分からない。ベルモットは自分の渾身の願いが叶えられないなどとはまるで思っていないだろう顔をしていて、その隣の零さんは心なしか冷や汗をかいている気がする。
「えっと、」
ランチの営業時間は終わり。それだって駆け込みのお客さんが来れば対応したことなんか何度もある。どこまでこの店のことを知っているのかは知らないが、今、彼女たち2人を強く拒絶する明確な理由を私は持ち合わせていないのだ。
あなたが怖い。それ以外は。
「残り物でもよろしければ、……どうぞ」
難しいことをつらつらと考えようと、絶世の美女の圧力の前では何もかもが無力である。私は屈した。鮮やかな白旗が私の心の中でぶんぶんと振られている。
零さんは小さく目を丸くした後で苦虫を噛み潰したような顔を一瞬見せ、ベルモットが「よかったわね」と目を向けると、すぐに嘘くさい笑顔に戻した。彼の言いたいことは一つ。“なに店に入れてんだ”ということである。
「どうぞ」
「へえ、美味しそうね」
「いただきます」
正直に言おう、生きた心地がしなかった。
私の目の前にあるカウンターに座るのは降谷零とベルモットである。ベルモットって普段変装とかしないんだな(この顔が本当の顔なのか知らないけど)とアニメを見ていたウン10年前から思っていたが、本当にこの顔で普通のレストランとか入るんだと驚きを超えて軽く絶望した。あまりにも店と合ってない。合成みたい。
私は自分のお昼用にと思っていたビーフシチューを出した。たくさん煮込んでおいてよかった。現実逃避に考えるのはそれだけだ。黒の組織、あっさり日常に登場しすぎな気がする。そんなんでよく秘密組織を名乗っていられるもんだ。早く全員捕まってほしい。
「本当に美味しいわね」
「ありがとうございます。美人に言われると照れますね」
「あら、アナタこそ素敵よ。子猫ちゃん」
口から変な声が漏れそうになるのを必死に喉を締めて堪える。ベルモットの顔と声で発せられる「子猫ちゃん」の破壊力たるや。凄まじい。何食べたらこんな女性になるんだろう。知りたいような、知りたくないような。
「ねえ?」
ベルモットが零さんに同意を求める。確信犯だ。そんな気がした。実際問題、降谷零という男のことも、この人と私の関係についてもベルモットがどこまで知っているかは謎だ。そもそもこの人が本当に心底敵なのか、そうでないのかは、確か原作でもまだ不明だったはずだ。
転生前の記憶を手繰り寄せながら、ふたりの会話を見守る。こんな危ない人とここに来るなんて。身内を何より大切にする零さんのことだ。相当予想外だったに違いない。
「ええ、もちろん。綺麗な人のご飯は美味しく感じますから」
「あはははは」
「言い方が胡散臭いのよ」
「勘弁してください」
ベルモットがやれやれと肩をすくめる。口から乾いた笑いをそれっぽく垂れ流しながら、その胡散臭い口説き方してくる男、私の恋人ですと思った。
▲深夜。時計を見るのも億劫で私は伏せていた顔を上げる。テーブルの上で丸まって寝るのはやめた方がいいと何度か言われたことはあるのに、どうしてもやめられない。彼のことを待っていたいという気持ちとそれでも寝たいという欲望の私なりの折衷案なのだ。
ドアが開いた音がして、廊下を歩く足音が続く。
聞き慣れたそれが近づいてきて、リビングのドアが開く。彼の姿を認めて「おかえりなさい」と言えば、彼は決まって目を細める。その刹那が、生きているうちで何より好きだった。
「またこんなとこで寝てたのか、寝るならベッドで寝た方がいい」
「零さんに会いたかったから待ってたの」
「疲れてるなら明日の朝でも、」
「疲れてるのは誰のせい?」
そんな気はなかったけど、わざとちょっと責めるような物言いをすれば、零さんは「あ」という顔をしてすぐに困ったように眉をハの字にする。今日、私がどうしても会いたかった原因をようやく思い出したらしい。
「すまない、悪かったよ」
「怒ってるわけじゃないよ」
「ん。でも、ごめん」
立ち上がり目の前に立てば彼の腕が私を抱く。すんなりと収まった場所は、何年も前からずっと私だけの場所のような安心感がある。
正直に言えばなんでもいい。何があっても、降谷零という男が生きてここに帰って来れば。帰ってきて、私を抱きしめるならそれ以上のことは何もないのだ。
「ありがとう。頑張ってくれて」
「別に何もしてないでしょう」
「いや、完璧だったよ」
私を抱く彼の腕の力が強くなる。私も自分の腕を彼の背中へ回した。
「……完璧な、他人だった」
それを聞いて「確かにそうだね」と私は笑った。確かに、昼間のわたしたちは他人だった。他人でなくてはいけないから、そう見えるように努力をした。上手くできていた自信はなかったけど、彼が『完璧』というなら何とかなったのだろう。心臓は口から出そうだったけど。
笑っていられるうちが華。
そんな言葉が頭をよぎる。彼のその言葉を笑っていられるうちは、私たちは『他人ではない』のだから。
「前もって言ってくれたら心の準備したのに」
「急に言い出したんだよ」
「……すっごい美人だったね」
「……貴女って人は、」
耐えきれなくなったのか、クスクス笑う零さんに心の底から安堵する。彼が笑えるなら大丈夫。私の目の前で彼が笑ってくれるなら、怖いことも、恐ろしいことも全部超えていけるのだ。
彼の背中に回した手を上下に動かす。子供を宥めるようにしてさすった背中は、見かけより小さいようで大きい。降谷零にも弱さはある。その一つが私であると、私は知っている。そして私が彼にとっての弱さであるなら、彼は私にとっての強さなのだ。きっと、一生言わない。でも、本当に、そう思っている。
「名前が、一番綺麗だよ」
きっと3歩離れていたら聞こえなかったような小さな声が、ふたりのわずかな隙間に響く。
恥ずかしいほど真っ直ぐな感情が、秘密ばかりのわたしたちを支えている。
「……そういうところが胡散臭いって言われれるんじゃない?」
「ひどいな、本心なのに」
「はいはい、イケメンは言うことが違うのね」
「本当だって」
知ってるよ。言わないけど全部、ちゃんと知ってるよ。
素直に拗ねた顔を晒す綺麗な顔に、そっと口付ける。キスをして、一緒にご飯を食べて、お風呂に入ったら同じベッドで眠ろう。今日は色んな意味で疲れてしまったから、たくさん、恋人の顔を見ていたいのだ。
title 花畑心中