夜が終わらなければいいと願ったことがある。今じゃない。今じゃなくて、もっと世界が真っ暗で狭くて悲しかった頃。私は、確かにそう願っていたし、実際、真っ暗な世界は朝も昼も、ほとんど夜と変わらなかった。
私がその話をすると、パウリーは眉間にくっきり皺を寄せて「はあ?」と低い声を出す。夜も朝も、彼の声は大体低く、それで不機嫌だと受け取られがちだが、その“低い”にも色々あると最近知った。
今の「はあ?」は『心底意味が分からない』という意味で少しの怒りを含んでもいる。
「……終わらねー夜がいいもんなわけねぇだろ」
あの時彼は確かにそう言った。とても真面目な顔だった。私はそれを聞いて小さく笑ったけれど、それに返すべき言葉は分からなかった。もっと言えば自分が笑った意味も、よく分かっていなかったと思う。
▲朝日が昇る。ウォーターセブンに、まだトンカチの音が響く少し前。薄っぺらなレースカーテンが一枚下がった窓は良いのか悪いのか、東を向いていて。嫌でも、昇る太陽に朝を知らされる。カーテン買いなよ、と何度か言ったがパウリーは「朝起きれっからこれでいい」と言って、頑なに遮光カーテンは買わなかった。ちなみに、朝日が昇っても寝ている時は寝ているので、結局パウリーの寝坊が治ることはない。
目が覚める。目を開けただけで匂いで朝と分かった。爽やかな朝の空気に慣れた葉巻の匂いが混じり込んでいる。ゆっくり体を動かすと、隣にだらしなく寝ていた体は既になく、あらゆるものが出しっぱなしになったままの汚い部屋の様子が目に入る。いかにも、パウリーという男を体現したような部屋だ。
体を起こし、滑り落ちたシーツの代わりにベッドサイドのイスの背にかかっていたグレーのパーカーを羽織れば、葉巻とお酒の匂いがして、ああ、しばらく洗ってないんだなとすぐに分かる。あとで洗濯機回そう。流石に代えのアレコレがなくなってきた。
そんなことを考えながら、腕をまっすぐ天井に向けて伸ばす。まだ伸びをして目を覚ますには少し早い時間だが、洗濯と、部屋の片付けをしてから仕事に行くなら丁度いいだろう。
褪せた白色のレースカーテンの上から窓ガラスをコツコツ叩く。
その向こう、ベランダに上裸で葉巻を吸う男が一人。カーテンを開けば朝日を浴びてキラキラと光る彼の髪に目を奪われて、小さく息を吐いた。パウリーは音に気づいて首だけ振り返り、右手をあげて、また眼下の街へと視線を戻す。
昨晩、散々好きにした髪はボサボサがちょっとマシになった程度の酷いものだし、こっちに向けられた背中には引っ掻き傷が一つ二つ三つ。それでも葉巻を持つ大工らしい太い指や、容易く材木を背負う広い背中は逞しく、だらしない格好のはずなのに、このウォーターセブンという街が、よく似合う男だなと思ってしまう。
「ねーえ、コーヒーと紅茶どっち飲む?」
「あー……茶」
「ん。お湯沸かすよ」
最初は苦手だと思っていた葉巻の匂いももう気にならないし、なんならパウリーをいつでも思い出せて好きなくらい。だから、彼がたまにこうして黄昏る朝、私もあのベランダで彼の隣にいられたらと思うけど、一度出て行った時に「そんな格好で出てくるな」といたく怒られて以降は自重している。
そう思うなら、夜、私の部屋着を遠くまで飛ばすの、やめてくれたらいいのに。まあ、言わないけど。
彼の家に置かれた可愛いお菓子の缶にはティーバッグが入っていて、ガラスの保存容器にはコーヒー粉が入っている。どちらも私が用意したものだ。中身も、なくなったタイミングで私が変えている。
「ソーセージしかねえぞ。いいな」
「いいけど。力仕事なんだから普段はもっと良いもの食べた方がいいよ」
一服を終え戻ってきたパウリーは、私の格好に一瞬顔をしかめたが特段騒ぎ立てることはしなかった。朝が弱くて怠いのが半分、部屋の中には自分しかいないからいいかというのが半分だろう。自分は上に何も着ていないくせに、私にはやたらと厳しいのだ。いや、私だけじゃなく女の子全般か?
「上、着れば」
「暑い」
「まだ春だよ」
「でも暑いんだよ」
そのままの格好でフライパンでソーセージを焼く恋人は、陳腐な言葉で言うと目に毒だ。ずっと見ていたい気持ちとやめてくれという気持ちがせめぎ合って、大体の確率で前者が勝利する。晒された肉体が健康的な色合いで程よい筋肉のつき方をしているなら尚更。
「じゃあ、ベランダ行く時くらいは何か着てって言ったら聞いてくれる?」
「なんでだよ」
「パウリーの裸見るのは私だけでいいから」
「なっ……! お前なァ」
パウリーが案の定大きな声を出して、それを諌めるようにフライパンから油が跳ねる。あっちいとか言ってないで服を着ればいいのだ。
私のケタケタ笑う声に何か言いかけていた彼の口は閉じて、代わりに「わぁーったよ」と不満そうな言葉を吐いた。分かってくれたならいい。自分の恋人の綺麗な上半身を誰にも見せたくないという独占欲は、彼の背中につけた爪痕くらいで十分なのだ。全部を言葉にしてまで詳らかにするものじゃない。
パウリーがソーセージを焼き終えたタイミングで、沸いたお湯を注いだ紅茶も完成する。部屋には朝と葉巻の残り香をかき消すように、紅茶のいい匂いが充満している。これこそ朝だ。晴れやかで美しく、一点の曇りもない朝だ。
私はマグカップをふたつテーブルへ。パウリーは白い皿にソーセージを2本と3本乗せて、それもテーブルへ。これだけじゃ流石に味気ないかと思ったのは、おそらくふたりともで、卵でも茹でようかと言い出したのは私の方だった。
「固め派? 半熟派だっけ」
「固」
「やっぱり」
キッチンタイマーは7分20秒。まっさらなお湯に沈むふたつの卵。それを会話もなく眺める上裸の男とビロビロのパーカーだけ羽織った女。
今この光景が破廉恥でないなら、他の何が破廉恥だと言えるのか。それを思うと少しおかしい。愛おしいとも言う。
卵が固く茹るのを待つ7分間。私たちは我慢できずにマグカップを手に取った。
白くて大きな彼のカップと水色のストライプの持ち手の可愛い私のカップ。恋人らしくペアになんてできやしない。私とパウリーじゃ飲みたい量が違いすぎる。
ついでに言えば私は朝は紅茶にミルクを入れる派だし、彼はいつもストレート。飲むスピードも違うから、決まってパウリーの方が先に空になる。彼のカップの方が大きいのに、だ。
何もかも違う。同じところを見つける方が難しい。でも好きだ。パウリーが好き。何もかもが違くても、彼が私のためにソーセージを焼いてくれるだけで十分で、彼の家に私用のカップが置いてあることを幸せだと思う。
「ねえ」
「あ?」
「パウリーの隣は、息がしやすいね」
残り3分39秒。スッと吐いてまた吸った。体の中を空気が巡る。それが生きているということだ。パウリーの隣は息がしやすい。愛に溺れて死ぬこともない。恋に喉を詰まらせることもない。穏やかで静かで滑らかだ。
「そりゃあ、臭えから禁煙しろって嫌味かよ」
「違うって、ほんとに。言葉通りの意味」
残り2分11秒。隣の恋人を盗み見る。難しい顔をしている。ぎゅっと引き結ばれた唇に無性に自分のそれを重ねたい。そんな衝動。まだ朝なのに。いや、朝だから。彼が、隣にいて生きていることを噛み締めている朝だからこそ、パウリーに触れたいと思う。
「……じゃあ、ずっとそこにいろよ」
残り58秒。吐息に混じって笑いが落っこちる。彼のカップはもう空なのに、部屋にはまだ入れたての紅茶の匂いが残っている。
「うん。……そうする」
その後に続く沈黙を埋めるようにタイマーが鳴る。私はそれを止めて、お湯の中から卵を掬い出し、水にさらす。自分の分は自分でと言って、互いに熱い熱いと殻を向けば、泣きたいくらい幸せだった。
「俺が剥いたやつ。やる」
「やだよ、白身剥けてるじゃん」
「っるせーな。おら」
ソーセージの隣に転がした私のゆで卵は、パウリーが剥いたボコボコのゆで卵と交換させられ、少しだけ損をした気分になる。でも、それはそれで愛しいからまあいいかと思うほどには、この恋が体の芯まで滲みているらしい。
「……パウリー」
「あ? 卵ならもう食った」
「朝が来るっていいものだね」
パウリーは目を丸くして、それからまた口はへの字に曲がり、眉は変な形に歪む。伸びた髭をかきながら、パウリーは「だろ」と言った。うん。頷くので精一杯。
明けない夜が必要な日々があった。結局それはなかったけれど、もし本当にあったとしたら、きっとそれはいいものだっただろうと今でも思う。それはいいものだけど、でも、今の私には必要ない。
世界は明るく広がり、幸福に彩られているから。
彼のいる朝が、何よりも美しいのだと知った今、もう二度と、終わりない夜を願う日は来ない。
title 花畑心中