※「名前はまだない」軸
※全2P
門の向こうには知らない顔の女性が立っていた。名前でも、回覧板を持ってくるご近所さんでもない、全く知らない顔の女性だった。
尾形は戸を開けたところで動きを止め、その顔を凝視する。この小さな田舎町は幸か不幸か住人のほとんどが顔見知りで、全く知らない人間の方がむしろ目立つような場所である。
だから見知らぬ女の訪問に、尾形は頭の中のスケジュール帳をひっくり返した。仕事関係の打ち合わせは谷垣を除き、この家で行われることはないし、自宅まで取材が来るということもない。
職業柄、アポなしで訪問し「我が社にも原稿を」と無理言ってくるタイプの営業マンもいないこともないが、女性の雰囲気はそういった雰囲気ではなかった。柔らかな雰囲気を纏う、いかにも普通の女性だった。歳は50〜60代。顔にはシワはあったが、身だしなみがきちんとしているおかげか、それほど高齢な印象は受けない。
よって、尾形には女性の訪問に全くの心当たりがなかった。
こういう時、名前であれば出て行って愛想良く用件を聞くだろうが、あいにく彼女は今買い物に出掛けてしまっている。ついさっき出たばかりだから、少なくとも30分は戻らないだろう。
尾形は立ち尽くしたまま迷い、面倒だから居留守を使おうかと考える。とっくに戸は開いていたが、他人にそこまで気を遣う義理も優しさも、生憎持ち合わせていない人間である。
「——あ。あなたが先生?」
戸をまさに閉めようという時、門の奥から声がかかる。女性が顔を上げ、尾形の姿を見つけてしまい、居留守は寸前のところで使えなくなった。「先生」という呼称に多少なりとも違和感を覚えながら、間違いではないので尾形は「はあ」と曖昧に頷く。尾形を先生と呼ぶのは業界の関係者か、あるいは外出中の同居人だけである。
くたくたになったサンダルを足につっかけ尾形がのそのそと門の方へ出てゆく。用件だけ聞く。そして尾形の知らない話なら一時間後に出直すように話す。そう心の中で反芻した。
と言っても、彼女がこの家に住み始めて以来、家のことなど何もやってこなかった自分なので、何を聞かれても大抵は知らぬ自信があった。
「初めまして。こちらに、名字名前という女性がおりますでしょう」
「……ええ、まあ」
「いつも娘がお世話になっております。名前の母です」
尾形より十数センチ低い位置にある小ぶりな頭がペコリと下がる。予想とかけ離れたその言葉に、流石の尾形も言葉を失う。名前の母と言ったか。言われてみれば、顔や雰囲気が似ているような気がする。もちろん言われないと分かるはずもないが。尾形にとっては懐にいれた以外の人間は皆同じ顔だ。
「……これは、大変失礼を」
しばし間を空けてようやっと絞り出した自分の声は、ここ10年で一番情けない声だったと尾形は後に振り返る。
▲ 名前の母を応接間に通す。お気遣いなくとは言われたが茶も出さないのは流石に無礼を重ねすぎだろうと、断って台所へ来た。台所へ来たはいいが、茶の場所も分からないことに気づいて、尾形は自分にほとほと呆れた。いい歳をして恥ずかしい。
兎にも角にも反省はいつかするとして、尾形は冷蔵庫を開き、水出しの檸檬緑茶のポットを取り出した。夏場になると彼女がよく作り置きしているものだ。これだ。これでいいだろう。結論づけ、尾形は棚の奥から小綺麗なグラスを出し軽くすすいで、そこにお茶を注ぐ。茶菓子を探している時間はもうなかった。
「お待たせしました」
「まあ、すみません。突然押しかけたのに」
「いえ。すぐに出ませんで、先ほどは失礼しました」
「いいのよ。知らない人間が訪ねてきて驚かせましたね」
名前の母は、顔立ちや声が名前とよく似ていた。でも母親の方がハキハキとしていて、なんとなく社交的なようにも見えた。父は寡黙な人で、と聞いたことがあるので、彼女はちょうど2人の中間なのかもしれない。
応接間で向かい合い、冷たい茶を啜る。気まずいことこの上なかったが、谷垣や勇作のようにほっぽり出して仕事へ戻るわけにはいかない。社交性と社会性の両方をどこかに捨ててきたような男にも、そのくらいは分かった。
沈黙を埋めるように口を開いたのは、尾形の方だった。
話したかったのではなく、伝えないといけないと思ったから。尾形は名前が先ほど買い物に出掛け、あと30分ほどは戻らないだろうということを伝えた。彼女の母親はにっこりと笑い「そうですか」と小さく頷く。どうにも、火急の用事で娘に会いにきたわけではないらしい。
「あの子は、……名前はご迷惑をおかけしていませんか」
「はい。むしろ、私の方が世話になってばかりです」
「そうですか、そうだといいんですけれど。あの子、家政婦なんてうまくやれるのか心配してたんです」
「そう、でしたか」
「ええ。だって突然ですよ。突然仕事辞めて茨城に行くなんて、」
彼女は、母親にしかと愛されているんだなと尾形は思った。子を持つ人間と話すことはあっても、誰かの母親とハッキリと認識した状態で言葉を交わすことなど、考えてみればほとんどなかった。
だから親子の愛情というものを間近で浴びるのは久しぶりで、学生時代以来、触れても来なかった心の片隅がガタリと音を立てている。尾形はそれを聞かなかったことにした。
「先生、ありがとうございます。有名な作家さんなんでしょう、娘に聞きました」
「いえ。……礼を言わないといけないのは私の方で、」
「茨城から戻った時、あの子、とてもいい顔をしていたんです。きっと、ここでの暮らしが充実しているんでしょうね。だから、先生には本当に感謝しています」
笑うと眦に皺が寄る。名前も歳を取ったら、そんな風に笑うようになるのだろうか。
尾形は返す言葉を探しながら、小さく頭を下げた。面と向かって感謝されることも、親から子への愛情を浴びることもそれほど経験がない。だから正しい返答がすぐには分からない。尾形は困っていた。でも、それは決して嫌な気分ではなかった。
「このお茶も、前に娘から土産で頂いたわ。とっても美味しいですね」
言わねばなるまい。尾形は思った。彼女の母親に、そのことを言うべきか否かと迷っていたが、ここで言わないということは偽りを述べることと同じである。
名前と交際している。そのことをハッキリと伝えるべきだ。尾形は珍しく手に汗をかいていた。暑いからではなく、緊張のためである。雑誌のインタビューにも皐月賞の授賞式にも緊張したことのない、あの尾形が。
「一つ、お伝えしなければいけないことがあります」
「……何かしら、改まって」
「名前さんと、お付き合いをさせていただいております」
事実、”交際”というと軽薄な感じを受けるが至って真剣な、一生を前提としたものだ。しかし、婚姻もしくは事実婚の関係のある以外の状態を世間一般では「交際」と呼ぶらしいので、尾形はそれに従った。
名前の母親は目を丸くした後、またあの、慈愛に満ちた顔で微笑んだ。眦には皺がより、それが一層彼女を優しげに見せる。尾形はくすぐったくなった。人の優しさというものに慣れたのは、ひとえに今目の前にいる女性の娘のおかげである。
「そのことを、先生の口から聞けて良かったわ」
「……それは、」
「実は娘から聞いていたんです」
“結婚したい人がいるって”
それはまさに、娘の幸福を祝う母親の顔であった。尾形にはそれが眩しくて、顔を伏せ、静かに瞼を下ろして、もう一度ゆっくり開く。一秒にも満たない。でもとても長かった。