※「脇役曰く」軸
あなたのためにできることを。なんでも、してあげたいと思った。
献身こそが愛だと言う人がいる。それは少しだけ違う気がした。でも、なんとなく、そう考えた人間の感情を理解できていたような気もした。
彼女のために。——そう言いながら、大体が自分のためだ。彼女の喜ぶ顔が見たかった。「ヒロ」って少しだけ足らない舌で、何度も呼んでほしかった。「ありがとう」も「ごめん」も「好き」も。彼女の口から出る言葉を全部、自分のものにしてしまいたかった。
一度も、その心根を明かさなかったのは、自分の方が年下だという小さな負い目と、それでも頼れる男に見られたいという自尊心。何を言っても、彼女が「いいね」と言ってくれるのは知っていたけど、ついぞ言おうとは思わなかった。彼女を困らせるのも、笑わせるのも、泣かせるのも。全部、全部自分ならいい、と。心底、ばからしいほど強く思っていた。
「ねえ、長野って星が綺麗に見えるんでしょう?」
「うん、……って、どうしたの。突然」
「今日ね、テレビで見たの。なんとか村」
興味あるのかないのか分からない口調で、彼女がそう切り出した。彼女の住むワンルームのアパートで、向かい合ってご飯を食べていた時だった。小さなテーブルには俺の作ったサラダとパスタ、彼女の作ったコーンスープが行儀良く並べられている。
就職活動を終え、バイトと卒業論文にだけ精を出すようになった名前さんは最近やたらとテレビを見ているらしく、特に、昼間にやっているような情報番組だとか旅番組を見ては、ああだこうだと報告してくれる。俺はテレビはあまり見ないから、「そうなんだ」と言うことばかりだったけど、『長野』というワードには、流石にいつもより具体的な言葉を返した。長野は、悲しくも愛しさを切り離せない生まれ故郷だ。
「行ったことある?」
そう問いかけられて、手を止める。彼女はそのことには気づかず、もぐもぐサラダを頬張っている。その様子がウサギみたいで、口には出さずに可愛いなと思う。歳はひとつ上だけれど、彼女が時折見せる幼気ない振る舞いは、俺にそう思わせるには十分すぎるものだ。
名前さんの子供らしい一面は、表情仕草に留まらない。野菜はあんまり好きじゃないと言われたときには流石の俺も「子供みたいだね」と言ってしまった気がする。それにムッとした時の表情が意地らしくて、悪くないなと思ったのだ。本当に。そんな彼女は俺がつくるドレッシングがお気に入りらしく、「これなら毎日食べたい」と、俺がキッチンに立つときには決まってそれをオーダーした。
「あるよ。小さい頃だけど」
「どうだった?」
「あんまり覚えてないけど、でも——」
一度、目を閉じる。確かに、瞼の裏にはあの夜の星がある。
昔を、特に両親がまだ生きていた頃を思い出すのは辛いことだった。でも、最後の1ページがあまりに辛く悲しい色で塗り潰されてしまっているだけで、それ以外のページはどれも美しく、思い出す価値のあるものばかりなのだ。だから、消してしまいたくなかった。いつまでも忘れずに、でも安易には開かずに、瞼一枚の下にそっと仕舞っておきたかった。
その場所に、そのアルバムに、彼女が触れる。嫌な気分はしなかった。恐れも不安もなかった。ただ少しだけ、胸の奥がざわざわする。
彼女は何も知らない。何も伝えていない。でも、“何か”あることは、うっすらと気づいているのだろう。無神経に心の柔らかい場所に踏み込むようなことは絶対にしない人だ。だから、その問いは、いたずらにそこに踏み込もうとしている訳でも、あえて真綿で包み込む意図がある訳でもない。ただ、その思い出が美しいものであると確信しているから。だから、彼女は、あえてそう聞いたのだろう。そして、それはその通りだった。
「でも、綺麗だった。星に、攫われるんじゃないかって思うくらい」
彼女の優しさに甘えている。何も話さない俺に何も聞かずに「そっか」と言って抱きしめてくれる彼女の甘さにつけ込んでいる。
無条件に許される。それは一つの愛だった。彼女が俺へ向けた、確かな形をした愛情だった。だからそれを甘んじて受け入れることもまた、その愛に報いるものなのだと都合のいいことを考える。俺も、彼女を無条件に許したい。でも、彼女は俺に許しを乞うことも、許しが必要な無遠慮なことも、絶対にしなかった。そういうところが美しく、どうしようもなく愛しくさせたけれど、同時に一握りの寂しさもあった。
「今度、連れて行ってよ」
「……行きたいの?」
「うん。行きたい。星とか見るの、意外と好きだよ」
なんでもないことのように約束を重ねる。それは学生の恋にのみ許された特権のようだった。その期限は、あと数ヶ月で切れてしまう。それでも俺も彼女も、そのことには気づかないふりをして、叶うかどうかも分からない約束を重ねていった。果たされなくとも、それがあるだけで良かった。部屋の隅に積み上がった未読の本を見て満足するのと同じように、ただ、彼女との『約束』があるだけで、明日も、一年後も、10年後までも素晴らしいものに思えたから。
「名前さんがそういうの好きなの意外じゃないよ、別に」
「そう? 友達には意外って言われるよ」
「だって花火も見たがってたし」
“結局、あの日は見せてあげられなかったけど”
そう言わず、でもそう言いたかったことは伝わったらしく、彼女は俺を見て呆れたように笑った。さっきまでのむくれた顔や、サラダを頬張る顔とは違う、大人の、俺より1年長く生きている女性の顔だ。
「もともと好きだけど、ヒロと見るのが一番好き」
「え? 俺と?」
「そう。ヒロと、綺麗なものを見るのが好き」
彼女のフォークがパスタをくるくる巻き付ける。彼女が食べているだけで、自分が作ったパスタが大層立派なものみたいに見える。彼女がそれを食べて笑うだけで、慣れた味がいつもより数倍美味しいものみたいに感じる。
彼女が俺の日常に与えてくれるスパイスのような幸せに慣れてしまって、以前のことが思い出せない。彼女が消えたら、世界は味気なく、色のないものに変わるだろうか。考えたくなかった。いつか、その日が来てしまうという淡い予感が、常にどこかに巣食っていたとしても。
「綺麗なものを一緒に見たいって、……すごい愛の告白じゃない?」
「ふは、自分で言うの。それ」
「だって、本当のことだから」
「俺、いますごい愛の告白された?」
「うん、そう。おめでと」
ああ。それは声にはならない。でも好きだと思った。どうしようもなく、この人のことが好きだと思った。あどけなく笑う唇に、今すぐにキスがしたい。彼女の唇についたトマトソースも丸ごと口に入れて、彼女の全てを、彼女が発するすべての声と思いを、他の誰にも渡したくない。醜い嫉妬、浅ましい独占欲。それがどうした。全部、愛だ。それが唯一の免罪符ならば、擦り切れるまで何度だって使ってやる。
「俺は、名前さんと、綺麗なものも、そうじゃないものも全部一緒に見たいよ」
「そうじゃないものも?」
「うん、全部。名前さんの隣で、ずっと見ていたい」
その心に嘘はない。約束でもないけれど。
ただずっと、そばにいたい。俺の中に残る純粋無垢な愛情がそう叫ぶ。何者かに染まり、可能と不可能の境界線を知った日も、願うことだけは自由だ。願う限り、努力できる。少なくとも、彼女の目に映るものは全部が綺麗なものになるように、力を尽くし続けることは、俺にだってできるだろう。
「私もしかして、すごい愛の告白された?」
「ん。そうじゃない? おめでとう」
泣いてもおかしくないくらいに美しく、儚いものに、名をあげるとしたら、やっぱりそれも愛だった。いつまでもいつまでも色褪せぬものがあるならば、きっと彼女への気持ちだけだった。
いつか別れを選ぶ日も、その後の未来も、ふたりが感じ分かち合ったものだけは、褪せることがないように。いつどんな色の夜に思い出しても、それはキラキラと輝いている。そういうあやふやな確信がある。
今、ティッシュ片手に手を伸ばし、唇をいつもよりさらに赤くした恋人の口を拭いてやる。「自分でできるよ」と照れ笑いする人に、自分でできることをふたりでやるのが恋なのだと教えてあげる。俺が、彼女に残せるものは、きっとそう多くないだろうから。
「ヒロ、」
「なに? 名前さん」
「私、星も見たいけど、ヒロの生まれたところに行ってみたいんだよ」
「ああ、……うん。そっか、……ありがとう」
「長野行って、星見て言うよ。ヒロを攫っていかないでくれてありがとうって」
「なにそれ、」
攫われそうなのはどっちだと、また心だけが形を持たずに消えてゆく。もし本当にそんな日が来たら、俺は彼女の手を固く握って、離さないままでいよう。彼女が星に攫われていかないように。
「楽しみだね」
シャボン玉が弾けるように、彼女が笑う。いろんな笑顔を持っている人だった。そのどれもが可愛らしく愛おしく、あの夜の星たちのように、いつまでも瞼の裏から消えなかった。
うん、と頷く。その約束は叶うことを願った。今まで交わしたどの約束も叶うことを祈ってきたのと同じように。積んだ本にいつかは手を伸ばすように、積み上げた約束のどれかも、いつかは叶えようと思い立つ日が来るだろう。それか、そう思い立つ前にバラバラに崩してしまうか。そのどちらかだ。どちらにせよ、実行するのは俺の方だから。約束を叶えるのも、なかったことにするのも、きっと俺だ。
献身は愛だ。でもそれ以外のすべての感情も愛だった。
失いたくないと願うことも、それでも手放そうと決めることも、何もかも。彼女の全てを自分のものにしたいという独占欲も、それら全部をいつか巡り合う他の誰かに譲ろうという身勝手な遠慮も。名前さんが好きだから、だから決めた。いつまでも褪せないものがあるならば、それだけで、俺はいつまでも幸せだから。
title 花畑心中